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ラオス・東北タイ踏査行
笹川 秀夫(東京外国語大学非常勤講師・上智大学博士課程) |
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●6年ぶりのラオス タイトルの「踏査行」がふさわしいほど、スゴい所に行ったわけではありませんが、7月の末から、6年ぶりでラオスに行ってきました.6年前というのは、タイとの間に橋が架かる以前ですね.たしか、橋は4年前の1994年に架かったんだと思います. まずは、首都ウィエン・チャンの6年の変化ですが、なにやら車やバイクが増えて、街が忙しくなったように感じます.レストラン、ホテル、ゲスト・ハウスも、かなり増えていますが、閑古鳥が鳴いている店も多々アリ.これは通貨危機で、景気が悪くなった影響でしょうか.このままだと、ボコボコつぶれそう. カンボジアの古典文学やら美術やらが専門だもんで、ウィエン・チャンでもお寺をまわって壁画や彫刻の写真を撮りまくるというお仕事をしてから、北部のルアン・パバーンへ向かいました.ここも6年前に来たんですが、その当時は、他の省に行くにはパック・ツアーしか許可されないという時代です.そのため、ルアン・パバーンに2泊3日で行くだけで、300ドル近くかかりました.僕一人のために、ガイドさん・車・舟が手配されます.そして、同じ日に入った人――たしか、アメリカ人夫婦とフランス人夫婦――にも、それぞれガイドさん・車・舟が手配されて、同じ時間に同じ行程をまわるという、なんとも不経済な旅行. ところが、今回のルアン・パバーン行きは、往復の航空券110ドルのみが外貨で、あとはすべて自分でヤレとのこと.そして、ウィエン・チャンに戻ってから、南部のパーク・セーまでは、片道で95ドル. パーク・セーでクメール遺跡ワット・プーを見てから、東北タイのクメール遺跡を見るには、ウィエン・チャンに戻るよりも、陸路で東北タイのウボン・ラーチャターニーに抜ける方が好都合と考え、その通りに移動しました.こんなルートは、6年前には、考えられなかったことです.自由旅行ができるというのは、よろしいことです.インチキ臭いタイ語を操りながら、自分で移動するというのはシンドイですが、なによりも安くてよろしい. ちなみに、来年1999年は、"Visit Laos Year"という観光年だそうです.でも、何か準備をしているというフシが全く見当たらない.観光年の前年にビルマ――この場合はミャンマーと書いた方が適切かも――に行った時は、政治犯の強制労働でしょうか、軍人さんの監視のもと、道路の補修などをしていました.それと比べれば、何も準備していないくらいの方が良いのでしょう. ●東北タイのクメール遺跡 ということで、今回はタイ・ラオスだけでなく、理屈ではカンボジアにも入ったことになります.入る時には、タイ側でパスポートを兵隊さんに預けるだけで、Visaは不要.緩衝地帯を数十メートル歩くと、すぐに遺跡です.ちなみに、緩衝地帯の道、遺跡の参道の両側は、いずれも地雷原.今や、アンコール地域ではほとんど見かけない表示です.でも、本当にヤバそう. 断崖絶壁でカンボジアの平原が見渡せること、それだけ地雷が埋まっていることからも推察できる通り、戦略上重要な地なのです.そのため、カンボジアがゴタゴタすると、見に行けなくなってしまいます.去年の8月頃から入場不可で、この数週間前に解禁になったばかりだとか.そのためか、日本人は僕以外に誰もおらず、タイ人がたくさんとFarang(白人/毛唐)が少々.おかげで僕もタイ人だと思われて、入場料100バーツのところが、30バーツで済みました. さて、上記2つの遺跡を見てから、コラート(ナコン・ラーチャシーマー)に荷物を置いて、さらにパノム・ルン、ムアン・タム、ピマーイと、ラオス南部・東北タイのクメール遺跡フルコースというのをやってきました. 東北タイのクメール遺跡を見ると、これってタイの国民文化に取り込まれているなぁと感じます.クメール遺跡なんだから、今のカンボジアにつながるはずなんですが、タイなんですよね.たとえば、クメール遺跡を見に行くと言ったときに、スコータイやアユタヤーというタイの遺跡もあるんだから、そちらを見に行けと言うタイ人て、いないじゃないですか.うーん、ナショナリズムって複雑. ●コーヒー雑感 ちなみに、ジャカルタでもベトナム風のコーヒーが飲めるのは、ご存知かな?安宿で有名なジャラン・ジャクサの一本西にある通りに、ベトナムうどん(フォー)の店があります.フォーはたいしたことありませんが、コーヒーは正しくベトナム風の入れ方、ベトナム風の味でしたよ. ラオスでも、ベトナムと同じく豆は取れるので、良いものを使っていると思います.でも、味はタイのコーヒーと同様で、運河のドブ水のような濃いのが出てきます.そこで今回、ラオスの食堂で、どのようにコーヒーを入れているのか、観察してみました.すると、コーヒーをグツグツ煮ておいて、それをカップに半分くらい入れ、そこにお湯を足すという方法です.どうりで、あんな味になるわけだ. つづいてタイですが、タイで日本に近い味のコーヒーを飲む方法は、デパートなどにテナントとして入っているUCCに行くことです.覚えている場所としては、サイアム・センターの中にあります. でも今回、僕は行きませんでした.そのかわり、食堂の「ドフの水」もしばしば飲んでいましたし、同じような味のする缶コーヒーも飲んでいました.ある日、バンコクのコンビニで「ブラック」と書いてある缶コーヒーを見つけたので、これと甘すぎる普通の缶コーヒーを混ぜたら、まともな味になるかと思い試したところ、なんと「ブラック」というのはミルクが入っていないという意味で、砂糖が入っていないという意味ではないのです.で、結局、甘すぎるコーヒーを2本飲む羽目になった次第. ちなみにタイでは、美味しいパンを探すのも一苦労ですよね.パンについては「紙粘土」と形容しています.そこで、美味しいパンですが、マーブンクロン・ショッピング・センターと同じビルの東急デパートに、サンジェルマンが入っています.ここは、日本に近い味のパンがあります. タイのコーヒー、パンの悪口ばかり書いてきましたが、これは別にタイ人が悪いわけではなく、植民地にならなかったという歴史に由来するんだと思います.インドシナ3国の人たち自身がパンを食べて、コーヒーを飲みたかったのではなく、フランス人が食べたかったから作らさせられたということですよね.だから、インドシナのフランスパンが美味しい、ベトナムのコーヒーが美味しいと、単純に喜んでばかりもいられないのかなぁと思います. 最後にカンボジアですが、カンボジアでは豆は取れないようで、ベトナムかラオスから輸入しているんだとか.カンボジアのコーヒーでいい点は、ミルク(コンデンス・ミルク)入りを注文すると、底にミルクの層があって、どのくらい混ぜるか自分で決められることです.ちなみに、コンデンス・ミルク入りのアイス・コーヒーをカンボジア語を注文すると、「ソム・カフェー・トゥック・ダック・コー・トゥック・コーク」となります.この早口言葉のような文章が通じるのが嬉しくて、カンボジア語を始めた当初は、飲みたくもないのに、こればかり注文していました. ●バンコク空港近くの宿 道順は、アマリの敷地のすぐ左にある路地を入っていきます.途中で急に道が細くなりますが、かまわず進みます.100mほど行くと三叉路に突き当たり、そこを右に入っていくと、お目当てのゲスト・ハウスです. アマリ・エアポート・ホテルは、あれだけボロいにもかかわらず、立地条件だけで一泊6,000バーツ位(約21,000円)します.同じ立地条件で200バーツで泊まれるということは、どのくらいボロボロの建物か、想像してみて下さい. みなさんが想像した建物を、1.5倍程度ボロくしたのが、そのゲスト・ハウスです.女性が一人で泊まるというのは、お勧めいたしません.でも、日本人の女の子2人組が泊まっていたようです.朝、そのうちの一人が、私はこんなスゴイ所に泊まったという証拠でしょうか、トイレ/シャワー室の写真を撮っていました. あとは、みなさんの勇気と根性次第です.さあ、どうする?! ●ラオスの通貨危機 おかげで、6年前に使い残した4,000キープ程度の僕のタンス貯金は、5分の1に価値が下がっていました.以前ならば食事が2回できた額ですが、今では朝食1回もあやしい. この通貨危機の前だと思いますが、高額紙幣2,000キープと5,000キープを発行して、通貨流通量が増えていたというのも、影響があるかもしれません(高額といっても、2ドル以下ですが).ちなみに、以前の紙幣には、社会主義国らしく働く人たちが描かれていたんですが、新しい高額紙幣には、初代首相のカイソーン・ポムウィハーンが描かれています.なんだ、個人崇拝か?とも思いましたが、ベトナムにホー・チ・ミンの紙幣があるんだから、我々も出そうという程度のことかも知れません. ちなみに6年前に行った時は、そのカイソーン前首相が亡くなって、お葬式をやっていました.亡くなった時は、大統領になっていたようですけど.では問題、初代の大統領は誰でしょう? 答えは、スパヌウォンという元王族です.社会主義国の大統領が王族というのは、少々変な気がしますが、ラオスの内戦というのは、共産勢力のパテート・ラーオとアメリカの支援を受けた右派との対立に、王族内部の対立が重なってくるんですよね.でもって、パテート・ラーオとスパヌウォンを首領とする王族左派が合流して結成したのが、ネオ・ラーオ・ハクサートで、彼らが1975年12月にウィエン・チャンを解放するということだったと思います.お勉強になったかな? ついでに、もう少しお勉強しますか?「エアー・アメリカ」って、ご存知?ラオス内戦(=第2次インドシナ戦争)のとき、ホー・チ・ミン・ルートを断つとかで、アメリカがラオスに行なった爆撃です.落とされた爆弾の量は、ベトナムへの北爆で落とされた量の1.5倍だとか. さらにアメリカは、グリーン・ベレーやCIAの工作員やらを送り込んで、モン(Hmongの方です)を中心とする少数民族のゲリラ部隊を訓練して、パテート・ラーオと戦わせるわけです.当然、彼らは75年の解放以降は冷遇されて、いまだにゲリラ活動を行なっているとも聞きます.そのため、ウィエン・チャンからルアン・パバーンなどの北への陸路は、危険だから止めた方がいいとのこと. でも南部へは、道の悪ささえ我慢すれば、今でも陸路で行けるようです.たとえば、サワンナケートへは、10,000キープ(=400円)程度のエアコン・バスもあるらしい.そして、南部へ向かう国道13号線は、全面再舗装を始めているようで、将来はカンボジアにまでつながるのではないでしょうか.そうなると、猿岩石というよりは、梅棹忠男著『東南アジア紀行』(中公文庫、1979)です. いつになったら、そんな時代が来るのか分かりませんが、この6年間のラオスの変化を見ると、そう遠い未来ではないかも、という気もしてきます. ★笹川秀夫さんのプロフィール★ |
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updated:2001.7.31
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