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チリ:ピノチェト独裁政権の亡霊
GEO代表 小田康之
 フィロキセラをご存知だろうか。根油虫などと日本語では言われ、ぶどうの根を食い荒らす虫である。このフィロキセラのために、かつてヨーロッパのワイン名産地のぶどう畑は、幾度も全滅の危機に見舞われた。

 このフィロキセラが、南米のチリには発生しない。それは、この国の地理的条件に由来するといわれている。よく知られるように、チリは世界でも南北にもっとも細長い国だ。その東側のアルゼンチンやボリビアとの国境沿いには峻険なアンデス山脈が南北に貫く。ペルー、ボリビアと接する北部には、アタカマ砂漠と呼ばれる世界でも有数の乾燥した砂漠が広がる。

 このような地理的条件が、天然の要砦として機能し、フィロキセラの発生を阻んでいるらしい。これが、最近注目される、良質で安価なチリワイン産出を支える一つの要因になっている。

 それにしても、多様な国土を持つ国だ。フィロキセラを防いだ天然の要砦だけのことはある。南を見るとパタゴニア、入り組んだ海岸線のフィヨルドに氷河をたたえる厳寒の地。南極へもっとも近いのは、このチリ。太平洋に浮かぶモアイ像で知られるイースター島もチリの領土だ。国土は日本のちょうど2倍、人口は10分の1強の1400万人程度に過ぎないにも関わらずである。

●100年前の太平洋戦争

 チリの最北部に位置するアタカマ砂漠は、実はもともとこの国の領土ではなかった。この地の大部分はペルーとボリビアの領土だった。この砂漠地帯は、荒涼としていて、一見、無価値に見えるが、やはりここは争いが起きるところ、ただの砂漠ではない。地下には、硝石や銅といった鉱物資源が無尽蔵とも言えるほど眠っていたのだ。

 この地をめぐってチリとボリビアの間に1879年、戦争が起こった。ペルーも巻き込み、南米太平洋岸の3カ国間での戦争、これが「太平洋戦争」と呼ばれる争いである。20世紀に、日米間で起こった太平洋戦争とは関係ない。この戦争は1883年にチリの勝利で終結する。これによってチリは、その国土を北へと広げる。ペルーは南の領土の一部を取られ、ボリビアは太平洋への出口を失って、内陸国となってしまった。

 チリは、硝石と銅を大量に埋蔵するアタカマ砂漠を手に入れた。硝石は、今日ではさしたる重要性をもっていないが、当時は貴重であった。火薬や肥料の重要な原料であったからだ。アタカマ砂漠の道を行くと、今日でも、ところどころに白い大地が目に付く。これが硝石だ。

 銅の重要性は、改めていうまでもないだろう。チリ全土で、銅は、世界一の埋蔵量を誇る。じつに世界の埋蔵量の25%。この銅の大規模な開発は、今世紀に入り、米国資本によって進められた。自国の主要な産業である銅産業が、外国資本に牛耳られていったのである。なかでも米国のケネコット社とアナコンダ社はチリ経済に大きな影響力を持つようになっていった。

●国有化とアジェンデ政権の崩壊

 チリの現大統領は、エドゥワルド・フレイという。この父親で同じくエドゥワルド・フレイが1964年に大統領に就任する。このフレイ大統領のもとで、銅産業を米国資本からチリ国民の手へと取り戻す動きが強まった。時は、資源産業を国有化するという、資源ナショナリズムの嵐が、世界中で吹き荒れたころのことである。

 チリは、民主主義の伝統を持つ国だ。19世紀の始めスペインから独立してから間もなく、19世紀半ばには政党政治が始まる。また、強固な文民統制によって、軍部のクーデターなどの政変も、とかく軍事クーデターと関連付けられるラテンアメリカ諸国にあっては、かなり少なかった。

 長い間にわたって、多党分立傾向が続いていたが、1950年代頃から政治勢力の3分化が激しくなり、相対立するようになる。1958年には、保守のアレサンドリ政権誕生し、続く1964年には中道のフレイが政権に就く。そして1970年には、革新のアジェンデ政権の誕生を迎える。

 1970年のアジェンデの大統領就任は、選挙で選ばれた社会主義政権の誕生であった。銅産業へのチリ国家の介入を、緩やかに進めていたフレイ大統領に代わって、この社会主義政権は、米国資本のケネコットとアナコンダの両社の鉱山を一気に完全国有化してしまった。

 これでは、米国は黙っていない。ただでさえ、社会主義政権の誕生に神経を尖らせているのである。

 アジェンデ政権の政治的基盤は脆かった。また、その社会主義的経済政策により、経済は混乱した。このような一触即発の状況下、1973年、軍部のクーデターでアジェンデ政権は崩壊した。このクーデターの背後には、当然のことながら米国の影もちらついている。

 ラテンアメリカでは、クーデターで権力の座を追われた者は、他国へと亡命するのが伝統になっている。同じスペイン語圏の国どうし、あるいはブラジルも含め、相互に亡命者を受け入れてきた。命まで奪われなくとも、隣国に逃れれば良い、という政治的衝突を最終的に回避するシステムだ。

 ところが、アジェンデは違った。空軍の爆撃機が攻撃を繰り返す中、大統領官邸であるモネダ宮で、自らの頭を銃で撃ち抜いた。

 このクーデターを指揮したのは、ピノチェト陸軍司令官である。これが、17年にもわたる軍事独裁政権の始まりだった。

● ピノチェト軍事独裁政権の拭い去れない影

 先日、あるチリ人ジャーナリストから、日本人とチリ人とのビジネスについての取材を受けた。筆者のイメージでは、チリ人は、周囲のラテンアメリカの国々といくぶん異なる国民性を持つ。時間には正確、性格も生真面目な人が多い。日本人が持つ「ラテン的」イメージとなかけ離れた国である。

 チリ人は、すべてにおいて白黒つけたがる傾向がある、という筆者の意見に、このチリ人ジャーナリストは、それはピノチェト時代が多いに影響していると言う。体制か反体制か、敵か見方か、すべてを二分法で考える訓練が、知らず知らずのうちに身についてしまった、と言うのだ。

 ピノチェト軍事政権の下で、チリでは政党活動が禁止され、言論の自由が奪われた。不当な逮捕、投獄、拷問といった人権弾圧が日常茶飯事となった。殺されたり行方不明になった人の数は、少なくとも3000人、実際はそれをはるかに上回るとも言われる。国外に亡命を余儀なくされたチリ人の数は実に人口の10%に上るとさえ推定されている。

 ところが、経済政策においては、ピノチェト時代のチリは、その後の新自由主義的経済政策を先取りし成功したとして、尊敬されることとなった。この経済政策を担ったのは、シカゴ大学で経済学を学んできたチリ人エコノミストたちである。シカゴ大学といえば、ミルトン・フリードマンで有名なマネタリストの牙城である。これらのチリ人エコノミストたちは、やや侮蔑的な意味も込めて「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれた。このシカゴ・ボーイズが市場重視の抜本的な改革を打ち出した。アジェンデ政権以前に国営化された企業を次々と民営化し、関税を大幅に引き下げ、規制を撤廃していった。ピノチェト時代を通してみると紆余曲折はあったにせよ、これによって、結果的にチリ経済は、見事な成長ぶりを見せることになった。

 1990年にピノチェト大統領が退き、民主化がチリにもたらされた後も、この経済政策は基本的に引き継がた。ラテンアメリカの経済的最優等生と呼ばれ、チリは注目を集めるようになっていった。

 昨年10月、病気治療のため滞在していたロンドンで、ピノチェト元大統領が逮捕された。スペインのガルソン予審判事らによる逮捕要請を受け、ロンドン警察が身柄を拘束したものだ。これは、独裁政権下で起きた虐殺、拷問、誘拐などの容疑による。

 その後、半年にわたる審理の末、英国の最高司法府である上院委員会は、ピノチェト元大統領に、国家元首としての免責特権はなく、逮捕を有効とする判決を下した。ただ、英国が「拷問に反対する国際協定」に調印した1988年以降の犯罪に限る、との判断を示したため、当初の32件の容疑は、3件ほどになった。これによって、スペインでの裁判のための身柄引き渡し手続きが動き出した。

 ピノチェト元大統領の逮捕劇は、軍事独裁政権の亡霊を呼び覚ますまいとしてきた、民主化後のチリを揺さぶることとなってしまった。功罪相半ばするピノチェト時代を、少なくとも表面的には払拭することによって、国内の対立を避けようとしてきたからだ。ピノチェト元大統領の身の行方がどうなるにせよ、軍事政権の亡霊を完全に葬り去り、真に安定した民主主義を確立するには、今しばらく時間がかかりそうだ。

 それでも、チリは、その国土の多様性や、勤勉な国民性を大いに生かしながら、長期的には経済的な上昇を続けて行くであろう。我々も、太平洋の向こうにある南米のこの国を、今後はもっと注意深く見てゆく必要がありそうだ。太平洋を伝って津波が届いたときだけではなく。

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updated:2002.07.20