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アンコール遺跡は「発見」されたか?
笹川秀夫(日本学術振興会特別研究員)
 以前、GEOのウェッブ・サイトに、東南アジアに関する文献のリストを載せてもらいました。このリストをもとに書いた文が、やがて本に載って出版されると予告したままになっていましたが、すでに上智大学アジア文化研究所編『新版入門東南アジア研究』(めこん、1999年)として出版されています。アジア関係の本が売れないという嘆きをしばしば耳にする昨今にあっては珍しく、現在では2刷が店頭に並んでいます。ご興味のある方は、お手にとってご覧ください。

 その後、最近になって別の仕事の依頼が入り、『地球の歩き方――カンボジア』の改訂版(2001-02年版)を出版するに際して、コラム数点の執筆、旧版では間違いの多かったカンボジア語会話集の訂正、地名や料理名のクメール文字による表記の作成を引き受けました。そこで、コラムを5点執筆したものの、紙幅の関係で1点が不採用となりました。せっかく書いたので、死蔵するよりは多くの方に読んでいただきたいと考え、ネット上で公開したいと思います。

 公開させてもらうコラムは、アンコールの遺跡群のうち、タ・プロムという遺跡に関するものです。この遺跡は、大木が遺跡の石に絡まったままの状態で保存されており、これまでは「発見者」の感動を追体験できるなどと紹介されてきました。けれども、本当にそうなのか、ちょっと疑ってみた文章です。

 そのほか、採用になったコラム4点でも、アンコールの寺院群を建てたアンコール時代を理想化する歴史観は、フランスの植民地支配と結びついていたのではないかなどという、やはりヘソの曲がったカンボジア観を披露してみました。これらのコラムが載った2001-02年版『地球の歩き方――カンボジア』は、2000年のうちに店頭に並ぶ予定です。ご興味のある方は、ご覧いただければと思います。

 前置きが長くなりました。以下、不採用となったコラムです。

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コラム:遺跡は「発見」されたか?

 タ・プロム遺跡は、「発見」当時の状態で保存するという方針が採られてきた。しかし、そもそも遺跡は誰かが「発見」したものなのだろうか?

 アンコール・ワットは、1860年、フランス人博物学者アンリ・ムオーの調査によって「発見」されたといわれてきた。けれども、ムオー自身、彼より先にアンコール遺跡を訪れたフランス人神父ブイユヴォーの記録に言及しているし、自分を「発見者」だとは思っていなかった。そして、アンコール・ワットは、地域の住民にとって宗教的な聖地でありつづけていた。つまり、ムオーの「発見」とは、コロンブスによるアメリカ大陸の「発見」と似たようなものだ。

 では、なぜムオーは「発見者」に仕立てあげられたのだろうか? これは、どうやらフランスによるカンボジアの植民地支配と関係がありそうだ。フランス人がアンコールを「発見」し、フランス人が調査・研究し、フランス人が保存・修復する、だからフランスはカンボジアを支配しつづけるという理屈は、植民地支配を正当化する。

 1922年にマルセイユ、1931年にパリで開催された植民地博覧会では、「インドシナ館」としてアンコール・ワットの巨大な模型が作られ、内部で仏領インドシナの産物が展示された。植民地博覧会は、アンコールの「発見」と、フランスによる植民地支配を宣伝する格好の場だった。

 フランス本国で博覧会が開かれたのと同時期、フランス人によるアンコール観光が本格化した。植物に覆われたタ・プロム遺跡を訪れることで、観光客は「発見」を追体験し、植民地支配の正当性を確認することができる。遺跡とは、古代の建造物が現在まで、そのままの形で残っているというものではなさそうだ。遺跡を誰に、どう見せるか、タ・プロムから保存・修復の政治的意図を読み取ることができる。

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updated:2001.07.31