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エッセー/アジア
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カンボジアからの電子メール(1)
南タイのムスリム 笹川 秀夫(日本学術振興会特別研究員) 1ヶ月弱の調査を目的に、10月9日、カンボジアに着きました。どんな調査をするかは次回以降にでも書くことにして、米英軍による空爆が始まってしまったので、カンボジアと、行きに寄ったタイでの今回の事件に関する報道を目にして思ったことを書いてみます。 テロ事件および空爆に関しては、カンボジアにせよタイにせよ、独自の取材ができるわけではありません。したがって、欧米の報道を(バイアスのかかったイスラーム観を含めて)そのまま流しています。独自の取材ができるとすれば、国内にマイノリティとして存在するムスリムの反応についてだけということになります。 まずタイですが、国内に200万人、全国民の4%にあたるムスリム人口をかかえています。とくにマレーシアとの国境に近い南タイ4県(パタニー、ヤラー、ナラーティワート、サトゥーン)に多く、この4県では人口の70%がマレー系のムスリムです。タイで目にした報道では、国内のイスラーム団体が空爆に対する反対運動を始めたとのことですが、とくに先鋭化した運動は起きていないようです。 タイ国内のムスリムの動きが注目されるのは、ムスリムに対する国民統合と統合に対する反発の歴史に由来するのでしょう。そもそも、上記の南タイ4県にマレー系のムスリムが多いのは、マレー系を主要民族とするパタニー王国が14世紀末に成立したことによります。18世紀末、現ラタナコーシン朝の初代王ラーマ1世による遠征の結果、パタニー王国はバンコクに服属することになりますが、同王国のスルタン制は維持されます。 たとえ服属していても、スルタンを戴いたイスラームの国が存続できた時代から、タイ国民へと統合される動きが生じるのは、19世紀後半にイギリスがマレー半島を植民地化する時期にあたります。東南アジアで唯一の独立国タイでは、植民地化を避けるためにも国家の近代化が急務とされました。当時の国王ラーマ5世の在位年が、日本の明治時代とほぼ重なるといえば、どんな時代か想像しやすいかもしれません。同王治下の1902年、スルタン制が廃止され、中央から派遣された役人が南タイを治めるようになります。 その後、1932年の立憲革命を経て、1938年にピブーンが首相に就任すると、均質な国民づくりが模索されます。その結果、マレー語やイスラームは「非タイ的な」ものとして抑圧の対象となりました。さらに1950年代末、サリット政権が成立し、タイは「開発独裁」の時代に入ります。同政権下、タイ人の南タイへの入植が奨励され、またイスラームの宗教学校でタイ語の授業が義務づけられるといった動きがありました。 こうした国民統合の動きに対して反発を強めたマレー系のムスリムは、種々の政治団体を組織して対抗していきます。そして、1960年代後半からは、武力行使も辞さない分離独立運動が進められるようになります。今年の4月か5月にも、ハートヤイ駅で爆弾テロ事件が起きました。普通に旅行をする分には、南タイがとくに治安が悪いということもありませんが、マレー系ムスリムの統合と反発という問題は、今なお未解決と言えそうです。 さて、専門外の南タイについて、上記の程度には情報をもっている種明かしをすると、今年の9月に非常勤で集中講義をして、南タイの影絵芝居にも時間を1コマ割いたからです。ということは、影絵芝居についても何か書けそうなので、いずれまた書くつもりでいます。タイだけで結構な分量になったので、カンボジアのムスリムについても、また次の機会にということで。 【筆者プロフィール】 |
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updated:2001.10.14
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