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エッセー/アジア
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カンボジアからの電子メール(3)
別荘の遺跡とホテルの遺跡と 笹川 秀夫(日本学術振興会特別研究員) 前回までに予告したお題は、公文書館での資料集めと、別荘の遺跡ということでした。10月20日から3泊4日でカンボジア南部に出かけ、別荘の遺跡のほかにホテルの遺跡も見てきたので、以上3点が今回のお題となります。 20日の朝、プノンペン市内の市場プサー・ダウム・コーからシェア・タクシーに乗り、南部を目指しました。国道3号線を南下すると、タカエウ州(いわゆるタケオ。自衛隊がPKOで行ったところです)までは綺麗に舗装されているものの、タカエウからコンポート(いわゆるカンポット)の間は、舗装道路にボコボコと穴があいています。プノンペンを発ってから、3時間ほどでコンポート着。まずはこの街に宿をとりました。 このコンポート州で以前から気になっているのは、植民地時代の1920年代に実施された一種の教育改革です。フランス語による教育機関を作り、役人になる人材を育成することは、1863年に始まる植民地化の初期から行なわれてきましたが、1920年代のコンポートでは、仏教寺院に併設されていた寺子屋を公教育機関と認め、僧侶を教師として養成するという実験が行なわれます。1930年代には、こうした寺子屋の改革がカンボジア全土に広がり、フランス語とクメール語による複線型の教育制度が完成します。この複線型の教育は1953年の独立以後も継続し、1967年に高等教育もクメール語で実施することが決まるまで、カンボジアの教育は植民地の遺産を引きずっていたといえます。 こうした植民地の歴史やなんかを調べるために、公文書館という場所に通って、役所の手紙なんぞをコツコツ読む作業をするわけですが、1920年代の教育改革については、南仏はマルセイユ近郊のエクサンプロヴァンスという街にある公文書館の資料を使ったフランス語の論文がすでにあります。何年に何があったかは、この論文を読めばわかるし、フランスで公開されている資料にどんなものがあるかもわかるんですが、結論は大いに問題という論文です。というのは、植民地の行政当局がどんな人間を創ろうとしたかという視点を欠き、教育を施してカンボジアが近代化されて良かった良かったという観点から問題をとらえているため、カンボジアのために、こんなに頑張ったフランス人がいましたという結論になっています。植民地支配って、そんなおめでたいものじゃないだろうと思うんですが。 では、この教育改革をどう解釈すべきかというと、「クメール人」を人工的に増やす試みだったというのが現在の見通しです。コンポートという地は港町で、もともと中国系の住民が多いところでした。そのコンポートで、教育改革が行なわれたのと同時期に、人口統計の取り方が変更されたとのことです。すなわち、中国系とクメール人の混血を「中国人」として分類していたのが、1920年代からは「クメール人」として分類するようになりました。人口統計というのは、「その他」なんてえ項目を創り出すことで、人間を遺漏・重複なく分類し管理する近代が編み出した支配の方法の代表ですが、その人口統計が「クメール人」を意図的に増やしたのと同時期に、寺子屋を利用する教育改革が行なわれたわけです。ということは、この教育改革も、仏教寺院を利用することで、仏教徒たる「正しいクメール人」を人工的に増やす意図があったと考えられます。そうとでも考えないと、植民地の行政当局が人やお金を使って教育改革に一生懸命になったことの説明がつきません。 今回の滞在中、プノンペンの公文書館でも、寺子屋の改革に関するフランス語の論文を読んだときと似たような印象を受ける経験をしました。植民地時代にフランスが「美術学校」という名で開設し、1965年以降は王立芸術大学となった学校について調べていたアメリカ人の研究者さんが、博士論文を書き上げたというので少し見せてもらったときのことです。ぼく自身、現在は植民地時代の文化政策を調べており、美術学校もテーマの一つなので興味を持って見たら、どうも中身に問題ありと感じました。 詳しく中身を読む時間はなかったんですが、第1章が危機、第2章が救済というタイトルになっています。ここらへんが、問題ありと感じた理由。この「危機」だの「救済」だのというのは、美術学校の初代校長ジョルジュ・グロリエなる人物の語りに由来します。グロリエは、植民地化によってカンボジアが西洋文化の影響を受け、「伝統」が「衰退」の「危機」に瀕している、「危機」から「救済」するため、美術学校を設立しようと行政当局に訴えかけました。20世紀に入ってからの植民地支配は、19世紀までのように経済的に搾取するだけでは批判を浴びるようになり、「われわれは植民地のためにこんなに頑張っているんだ」と支配を正当化する必要に迫られました。文化政策というのも、植民地支配の正当化という観点から検討しなおす必要のあるテーマだと考えます。 カンボジアが西洋文化の影響を受けることも、本当は「危機」なんかではなく、外からの影響を取り込んで、カンボジア文化がより豊かになる動きと解釈できるはずです。したがって、「危機」やら「救済」やらは、あくまでフランス人が支配の正当化のために語っているという意味で、カッコでくくる必要があります。これらの語をカッコなしで章のタイトルにまでしてしまった博士論文は、フランスによる植民地支配を正当化する言説を英語で再生産したと見なすべきでしょう。今後、全文を手に入れたら、批判の対象とさせていただく予定でおります。 カンボジアでは、ポル・ポト時代(1975−1979年)にすべての資料が失われたかのような言われかたをした時期もありましたが、実際にはそんなことはなく、植民地時代以降の行政文書や官報を収める公文書館が手付かずで残っていました。内戦中に内部が少々荒らされていたものの、トヨタ財団などの援助で整理が進み、1999年初めから研究者に公開されるようになりました。こうした新しい資料を使うこと自体も、なにがしかの評価の対象にはなります。しかし、新しい資料を使うのはあくまで手段であって、新しい結論を導きだすことこそが本当の目的だと考えます。カンボジア研究で扱われる課題は、アンコール遺跡とポル・ポト時代の虐殺に極端な偏りが見られるため、手書きやタイプ打ちのフランス語の行政文書をコツコツ読むことで、新しいテーマを扱い、新しい結論を導きだす可能性は無限に広がっていると思います。ある意味、かなり恵まれた条件にあるんだから、新しい研究をしようよと思うんですが、なかなかその手の研究が出てきません。じゃあ、自分でやるかと、相当に前向きではあります。 さて、南部に出かけた話に戻ります。10月21日、お目当てのカエプ(いわゆるケップ)に行ってきました。コンポートからバイク・タクシーに揺られること40分あまり、海岸沿いにシハヌック時代(1953−1970年)に建てられた別荘が遺跡と化して並んでいるのが見えてきます。別荘が遺跡になるのは、言うまでもなく20年にわたる内戦の間、放置されていたことの結果です。では現在、海も顧みられていないかというと、カンボジア人向けの憩いの場として機能してはいるようで、わらぶきの東屋が並び、おばさんたちがカニを売っています。でも、マリン・スポーツなんてえものは、もとより望むべくもない(そんなものに興味があって出かけたわけではないですが)。 翌22日には、またシェア・タクシーに乗り込み、コンポートから3号線を西に向かい、コンポン・サオム(シハヌック・ヴィル)へと歩を進めました。全3時間の行程のうち、最初の1時間はタカエウ=コンポート間と同様に穴だらけの舗装道路です。つづく1時間が最難関で、高低差が1メートル近くはあろうかという凸凹の未舗装路になります。これだと車に弱い人は酔うだろうと思っていたら、予想にたがわず、同乗客のカンボジア人のおばさんと男の子が、窓の外やビニール袋のなかに吐きはじめました。 残る1時間は、完璧に舗装された4号線と合流するため、快適なこと、このうえなし。なぜ路面状況がこんなにも違うかというと、カンボジアの現代史とおおいに関係があります。ロン・ノル時代(1970−1975年)の内戦中、3号線は早くからポル・ポト派の支配地域に入ってました。一方、4号線は、首都プノンペンへの補給路として使われ、米軍が舗装し、米軍が守っていたという歴史があります。 さてさて、ここコンポン・サオムには、ホテルの遺跡があります。シハヌック時代に建てられたインディペンデンス・ホテルというのがそれで、いまや外国人向けの観光地となっているらしく、なかに入ると「幽霊が出るぞ」云々という英語の落書きが各階の壁に見られます。なお、コンポン・サオムには、こんな宿泊できないホテルしかないわけではなく、中国系のオーナーが経営する中級ホテルがどんどん増えています。 ということで、カンボジアで海に遊びに行くなら、コンポートやカエプではなく、4号線だけを使ってコンポン・サオムに行くことをお勧めします。とはいえ、悪路と嘔吐の臭いに耐えるのも、それはそれでカンボジアが歩んできた苦難の道をたどる修行だといえるでしょう。ここまで読んで。「よし、私もその3号線を通ってみよう」と思ったあなた、本当にツラいので、やめておいた方がいいです。 ***************** カンボジア近現代史略年表 ********************** 【筆者プロフィール】 |
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updated:2001.11.07
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