3. 巡礼と死
私が巡礼に興味を抱く直接のきっかけとなったのは、前述の通り、熊野古道であるが、熊野詣が盛んだった当時、道中で行き倒れ、無縁仏となった巡礼者は多いという。
今ではサンチアゴの道をマウンテンバイクに乗ってスポーツ感覚でいく人も多い。だが日記の中で紹介したように不幸にして亡くなる巡礼者もいる。サンチアゴ・デ・コンポステーラまであと25kmで息絶えたこの巡礼者は、死ぬ直前、何を思ったことだろう。目的地まであともう少しというところで死んでしまう無念さだろうか、それとも自分の信じた巡礼の道で巡礼者として死んでいけるある種の満足感であろうか。
昔のように長期間、旅をしても危険のなくなった現代だが、巡礼には死の影が付きまとうことは確かである。死を賭して尚、彼らを巡礼へと駆りたてたのは一体何なのであろうか。
(i) 死地への旅
巡礼とは死地への旅でもある。熊野は「死者の国」「黄泉の国」ともいわれている。実際、熊野本宮大社から那智大社へ向かう大雲取越えには、「亡者の出会い」という坂があり、そこでは死んだはずの肉親や知人に出逢うと伝えられている。またここは熊野詣の難所であり、行き倒れて無縁仏となる巡礼者も多かったらしい。地元の伝承ではそうして餓死した無縁仏の亡霊がダルという妖怪となってそこを通る者に取りつくのだそうである。こうした危険な地から無事巡礼を終えて帰ってきた人にとって、その体験は正しく「生まれ変わる」ことだったのかもしれない。
(ii) 死を覚悟して
日本で巡礼者の着る服といえば白装束、すなわち死装束である。巡礼者は出発するそのときから既に死を意識していたともいえる。
四国遍路には「捨て往来手形」というものがあった。これには「途中で行き倒れてもその村の法に従って埋葬してほしい。わざわざ知らせなくてもよろしい。棄ておいて下さい。」という内容が書かれていたということである。また似たようなものはサンチアゴ巡礼にもあり、フランスには巡礼者が出発前に書いた遺書が数百通も残っているという。もし死んだらその地の教会で葬ってほしいこと、死後の葬儀に関することなどが書かれているという。
四国遍路にもサンチアゴの道にも巡礼者の中には、レプラやハンセン病といった当時恐れられていた病にかかり、一般社会では生きていけなくなった人が少なからずいた。社会に見捨てられた彼らを何もいわず受け入れてくれた巡礼の道は彼らにとって唯一安心できる空間だったのかもしれない。そしてそうした人々にとって巡礼に出るということは死に場所を求める旅だったのかもしれない。
そうして死に場所を求めた人の一人に歌舞伎俳優の市川団蔵がいる。「巡礼の道」の中からその箇所を抜き出してみたい。
昭和41年5月初め、四国八十八ケ所一番・霊山寺に、品よく練れた風貌の老人が立ち寄り、半袖の白衣や金剛杖を買い求めた。「さびれた人里をひとり静かに歩くのが、20数年来の夢、途中で倒れても悔いはない」と老人は、6日ほど前、ひとり東京をあとに旅立った、舞台を引退したばかりの歌舞伎俳優・市川団蔵、88歳である。昭和18年の襲名以来、とかく格式に縛られる窮屈な世界で、「団蔵」という名人の呼称の重荷に耐えてきた、その労苦からやっと解放された。
「お遍路になれて、こんなにうれしいことはございません」と、団蔵は霊山寺の住職に告げ、はればれとした顔で立ち去った。
八十八ケ所を巡り終えた団蔵は、5月30日、妻あての葉書をしたためた。
「今朝、屋島を出ましたが、山下にて新聞記者3名に会い、車にて八十五、八十六、八十七、八十八番まで行き、巡礼は終わりました。これからは自由なので、只今、小豆島まで来ました。今度は長生きしたので得だと思いました。
父母の五十年忌も済ませし上無縁の人までとむらいにけり」
徳島の般若院住職には、帰京したら静かな郊外でのんびり余生を送るつもりだ、と団蔵は語ったという。だが、小豆島の旅館に2泊したあと、6月2日、夜なかの午前零時、坂手港を出た大阪行きの汽船に乗っていた団蔵は播磨灘に身をおどらせた。
僧侶詩人の村岡空は、これを「即身成仏」と見、土佐文雄も、「四国巡路になって念願の安らぎを得、入寂の心境に入ることができた」ゆえの自殺、と解している。
生命の危機に瀕したとき人は誰でも「死にたくない」と思う。だが人生の目的は決して「死なないこと」ではないだろう。いかに生きるか、が重要であって、生きるだけ生きたその延長上に死があるなら、死とは恐怖ではないだろうと私は思う。