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トルコ仮設住宅の夜
渡辺真帆(コミュニケーション・コーディネーター) |
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10月1日 | ||||||
アジアとヨーロッパの中間地点と呼ばれ、東西の文化が美しく混ざり合い共生する国、トルコ。今朝早くピースボートはイスタンブールの港に到着した。港が市街地にあるため、玄門から一歩外に出るとすぐに目の前に厳かなヨーロッパの町並みが広がっていて、驚かされる。灼熱のアフリカから来たのですっかり忘れていたが、ヨーロッパは今秋なので、初秋の風がなんだか肌寒い。慌ててジャケットを羽織ながら町の様子を眺めると、ゴシック建築と並んでイスラム建築のモスクの塔があちらこちらにそびえ立っているのが見える。なんだか面白い。 | ||||||
しかしピースボートに乗ってから寄港地に降りるたびに思うことだが、船を一歩降りるとそこはインドだったり、アフリカだったりヨーロッパだったりして、いつもとても不思議な感覚を覚える。私が仕事をしたり、ご飯を食べたり寝たりと普通の生活をしている間に船だけがどんどん進んでいるわけだから、なんだか外国に来たと言う実感があまりない。誰かが 「ピースボートって“どこでもドア”みたい」 と言っていたけれど、その通りなのかもしれない。 トルコでの私の仕事は、一泊二日の交流コースに通訳として同伴することだ。行き先はイスタンブール中心地から2時間ほどの郊外にある、1999年のトルコ大震災の震源地、ギョルジュク。今回参加者達はギョルジュクで再建された現地の小学校を訪問して、子供達と文化交流をする予定である。その後、現在も数千人の人々の生活の場となっている仮設住宅地を訪問し、震災の被害者の話を聞き、夜は仮設住宅でホームステイをさせてもらうことになっている。3年前の震災の直後、ピースボートの援助団は支援金と共にセーター6000枚と毛布1万枚を持って現地に入り、1ヶ月近く援助活動をしたのだが、その時に一緒に活動をした、現地NGOのパシアートという団体に今回の交流コースでもお世話になることになっている。 参加者17名と我々スタッフ3名を乗せたバスはアジア側とヨーロッパ側をつなぐ大きな橋を渡り、2時間ほどかけてギョルジュクの小学校に到着。バスが平屋のこじんまりとした小学校の前に着くやいなや、突然ワーっという歓声と共に紺色の制服を着た小学生達に囲まれ、大歓迎を受ける。初めに学校の前で校長先生から歓迎の挨拶をしてもらい、その後は小学生達の待ち構えている5つの教室に何人かのグループに分かれて入って行くことになった。 私が担当になったクラスは12歳の子供達のクラスで、男女合わせて35人くらいの学級である。まだ若い可愛らしい女性が担任の先生らしく、日本からのお客さんにすっかり興奮ぎみの子供達に静かにするようにと、盛んに注意をしている。ある程度覚悟はしていたのだが、先生も生徒もほとんど全く英語を話さないため、コミュニケーションを取るのがとても難しい。日本から突然やってきた我々の訪問に、子供達は”一体この人達は今から何をしてくれるんだろう?”と目をキラキラさせて待っている。何の用意もしてきていなかったので、かなりのプレッシャーである。でも私の仕事は子供達と参加者の橋渡しをすることなので、ジェスチャーと、それからアヤシイ初級トルコ語でなんとか交流会を始めることにした。 まずお互いに自己紹介をし、その後シャイな参加者達をうまく誘導して、半ば無理やり日本の童謡を3曲歌ってもらい、その後子供達からのトルコ語の歌を聞かせてもらった。その後スタッフが持ってきてくれていた習字のセットを発見し、その場で急いで墨をすり、子供達の名前を筆で当て字で書いてあげることにした。本当は参加者の人にぜひやって欲しかったのだが、“上手に書けないからいやです〜”などと言われてしまい、私が結局35人分の子供の名前を書くことになった。しかしみんな“ズドゥ−シャ”とか“グックナハー”とか言う名前だから、漢字にするのにかなり苦戦。笑いをこらえながらできるだけ良い漢字を使う努力をしつつ、大汗をかきつつ、なんとか35人分書き終え、子供達にキスをいっぱいもらって小学校を後にした。 その後ギョルジュクの同じ地区の仮設住宅地に行き、パシアートの人々と共に、ピースボートが運んできた援助物資を仕分けする作業を始めた。今回の訪問の目的は、震災後の復興の様子を見ると共に、ピースボートの運んできた寄付金と、子供達に文房具を届けようと言うことである。イスタンブールのこの地区にはまだ仮設住宅がたくさんあり、震災から3年たっても政府の援助金で生計を立てている人々が何千人といる。ひどいインフレの影響もあり、仮設住宅を出て家を持つことができる人はほぼ皆無なのだそうだ。 白い平屋の簡単な造りの住宅地に到着すると、ここでもやはりアジア人が珍しいのだろうか、早速興味津々な顔つきの大人と子供達に囲まれて、トルコ語であれやこれやと話しかけられた。その後、人々が普段お祈りの場所に使っていると言う広い部屋で、被災した3人の女性の話を聞くことになった。娘を目の前で失った女性や、家族全員を失い、自分も片腕を失った初老の女性の話などを聞き、改めてトルコ大震災の被害を思い知った気分だった。 その夜は2、3人のグループに別れ、ホームステイ先で夕飯をご馳走になったのだが、とにかく道を歩いていると、どの家の人も“自分の家で食べて行って!”とか“チャイ(紅茶)を飲んで行かない?”と声をかけてくれて、うれしくなる。自分たちの生活も決して豊かとは言えないのに、遠方から来た日本人を一生懸命もてなそうとしてくれているのが分かって、なんだか胸が一杯になった。結局その日、私は3軒のお宅で夕飯をご馳走になった。お腹ははちきれそうだったけれど、暖かい笑顔とおいしい食事で、心から幸せになった。 私をすっかり気に入ってくれたらしい女性達は、近所の人にも声をかけて、ストリートでみんなで踊ろうと即席のダンスパーティーを開催してくれた。ご老人達もイスを持って外に出てきて手拍子をしてくれ、私は小さな子供達にトルコダンスを教えてもらって、遅くまで月明かりの下で、みんなで手をつないで踊った。そのうち仕事から帰ってきた男性がタイコをたたき出し、自称歌手のおじさんが歌を歌い、宴会は彼らがメッカに向かってお祈りをする時間である朝の4時まで続いた。 翌朝、朝食を頂いたあとに、昨日仲良しになった子供達と一緒に、参加者みんなで文房具を各家庭に配りに行った。昨日私達が訪れた小学校の生徒である6年生の女の子二人に手をひかれて、息が白く見えるような寒さの中、朝の仮設住宅地を息を切らしながら走った。二人の女の子達は、私といるのがうれしくてしょうがないといった様子で私の体にぴったりくっついてきて、暇さえあればホッぺや手にキスをしてくれた。 たった一日半であったけれど、この仮設住宅の人々とかけがえのない時間を過ごした私を含む全ての参加者にとって、彼らとの別れはとても辛いものだった。私の毛布を夜中に何度もかけ直してくれた、優しいおばあちゃん。私のカップが空になるのも待たずに紅茶を何杯でも注ぎ足してくれた笑顔のきれいな女の子。そして涙をぽろぽろ流してバスを見送ってくれた12歳の女の子。“またトルコに来てね。いつでも私たちの家に住んだらいいから”と言ってくれたみんなの声が、いつまでも心に残った。 |
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updated:2002.11.25
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