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メルマガ/vol.17
2002.05.29 |
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Contents
(1) 「植民地宗主国としてのフランス紀行(1)」 |
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みなさん、こんにちは。東京に戻っております小田です。
本号のGEO Global Magazineでは、フランスにて資料調査中の笹川秀夫さんによるフランス紀行の第1回をお届けします。仏領インドシナ研究の権威ある機関「フランス極東学院」の持つ意味について、興味深い視点からの考察です。 GEO Globalの行事案内をお届けするメルマガ GEO Global News を受信されている方は既にご承知のことと思いますが、今度の土曜日にオフラインによる行事を開催致します。皆さんにお会いするのをオーガナイザー一同、楽しみにしております。 小田康之(oda@geo-g.com) |
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────────────────────────────────────── ★「植民地宗主国としてのフランス紀行(1)」 笹川 秀夫(日本学術振興会特別研究員) ────────────────────────────────────── 5月13日に日本を発って、1ヶ月の予定でフランスに来ました。パリに1週間滞在した後、南仏はマルセイユ近郊のエクサン・プロヴァンスという街で資料集めを続けているところです。 カンボジアを専門にしている人間が、なぜフランスに来る必要があるかといえば、植民地宗主国というのは植民地からいろんなものを持っていってしまうからです。そして、フランスによって植民地にされた側を専門にしているからには、フランスの嫌な面もいろいろと知っているつもりです。だから、実際に来ても、そういう嫌な面がけっこう見えてしまうんですよね。 フランスがお好きな方や、実際に来てみて印象が良かった方にとっては、面白くないことをあれこれ書くことになるのかもしれません。でも、「フランス素敵ー」とかって言説は人口に膾炙しているわけで、少しぐらい違う見方があってもいいかなあと思います。 ということで、まずはパリでの出来事から、植民地にまつわる話を始めましょう。 ▼5月14日、パリの地下鉄にて フランスでの資料集めは4年前に続いて2回目ですが、こちらに住んでるベトナム人だと思われるのは相変わらずで、毎度のことながら道を尋ねられてます。そういうのは一向にかまわないんですが、パリに着いた翌日に地下鉄に乗っていたら、向かいに立っていたフランス人のおばさんが、こちらに向って蹴りを入れるふりをしたり、横をすれ違う際に自分の鼻をつまんだりしてました。 こういう露骨なのは、前はなかったと思います。やっぱり、移民排斥ってことなんでしょうか。移民じゃないんだけど・・・。それに移民だとしても、彼ら・彼女らは、たいていフランスが植民地にしたところの出身なわけです。そうした移民を廉価な労働力として利用してきたわけだし、今になって排斥というのは、ちと勝手な話だなあと思います。 ▼5月15日と16日、フランス極東学院にて フランス極東学院というのは、1900年に設立された研究機関で、かつては仏領インドシナにおける政治の中心ハノイに本部が置かれていました。そして、このフランス極東学院はインドシナを全体を統治する総督府直属の機関で、研究というものが植民地支配とともに始まり、政治と無関係ではありえないことを示す例だといえるでしょう。 その研究は、これまでフランスにおけるアジア研究の粋を集めたものとして権威づけられてきました。では、その権威づけや研究の中身が、どんな政治性を帯びているかが検討されるべき時期に来ていると思います。 たとえばカンボジアでは、アンコール遺跡がその好例。「カンボジア人には遺跡の修復はできまい、それなら我々フランスが直してやる、だから我々はここにいる」だとか、「アンコールは栄光の時代だった、その後のカンボジアは衰退した、栄光を現代に取り戻すのは我々フランスだ」とかね。 フランス極東学院が研究や保存・修復を一手に引き受けてきたアンコールなるものが、植民地時代にどのような政治性を帯びたかってことを考慮しなければ、その後カンボジアのナショナリズムにアンコールが取り込まれていく理由や、現在でもカンボジアにおいてアンコールが高度に政治性を帯びている理由は見えてこないと思います。ただし、資料を見せてもらう際には、そんな思いはおくびにも出さず、「カンボジア研究はフランスにたくさん蓄積があるだろうから、見せてくださーい」という態度でのぞまねばなりません。 ということで、5月15日と16日の2日間、フランス極東学院の本部へ行ってきました。今回見せてもらいたかったのは、植民地時代、とくに1920年代から30年代にかけてカンボジアの寺院壁画を撮った写真でした。西洋美術の影響がカンボジアの美術に及ぶのが、この時期じゃないかとにらんでのことです。 でも、ないんですよねえ、その手の写真が。2万数千件がデータベース化されているけど、アンコール遺跡ばかりです。当時の人が興味を持たなければ写真も残らないわけで、タイの影響を受けた美術様式から西洋美術の様式へと、いつ頃、どう変化したかなんてことに興味があるひとはいなかったということなんでしょう。 そもそも、カンボジアが西洋文化の影響を受け入れることを、「純粋」な「伝統」が「衰退」するとかってフランンス人の文化政策担当者が勝手に嘆いていた時代ですから。アンコールが政治性を帯びていく時代を研究するということは、アンコール以外のものが切り捨てられていく時代を研究するということでもあると知らされました。 さて、まだ3日分の行動しか書いていませんが、インターネット屋に持ち込んで、ポチポチと打ち込もうと手書きで作成した原稿がここで尽きてしまいました。続きは、また次回にでも。 【筆者プロフィール】 |
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updated:2002.05.30
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