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メルマガ/vol.16
2002.05.10 |
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Contents
(1) 「カリフォルニアとスペイン植民 −サンフランシスコで考える−」 |
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皆さん、いかがお過ごしでしょうか。 個人的なアクシデントに見舞われていたため、配信が遅れてしまいました。どうもご迷惑おかけ致しました。 久々のGEO Globalのオフラインの行事が、来る6月1日(土)に開催されることになりました。今回は、コロキウムと7周年記念パーティーを同日に開催する豪華版です。内容や場所の詳細は、GEOの行事案内をお送りするメルマガ GEO Global Newsやウェブ上で追ってお知らせいたします。忘れずに予定に入れておいてくださいね。小田も帰国し参加予定です。 6月1日(土)1:30 - 5:00pm 第42回コロキウム(東京・九段社会教育会館) さて、今号の内容のご紹介。 そして、もう一つは、GEOのサブグループとして1997年に活動を開始したTOKYO旅倶楽部の装いも新たになったウェブサイトのご紹介。運営されている、やまうちさんのセンスが伝わってくる美しいサイトです。 小田康之(oda@geo-g.com) |
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────────────────────────────────────── ★「カリフォルニアとスペイン植民−サンフランシスコで考える−」 小田 康之 (GEO Global 代表・在サンフランシスコ) ────────────────────────────────────── 「バハ・カリフォルニア」という地名を子供の頃に世界地図で見つけて思った。カリフォルニアって米国の地名じゃないっけ? バハ・カリフォルニアは、太平洋側に突き出た半島だ。「バハ」って半島っていう意味のかなあ? こんな子供の頃の疑問が解けるのは、後に大学に入ってスペインやラテンアメリカのことを学ぶようになってからだった。 スペインやラテンアメリカのことを学んでいた頃には思いもしないことだったが、ひょんな巡り合わせで、そのカリフォルニアはサンフランシスコに住むことになった。 町の名前からして「サンフランシスコ」である。サンフランシスコとは、アッシジの聖フランチェスコのこと。アッシジは、イタリアの中部の山の中腹にある村だ。フランチェスコは、裕福な商家に生まれ放蕩な生活を送っていたが、20代半ばに全てを捨てて清貧の生活に入り、フランチェスコ修道会(フランシスコ会)を設立する。 なぜイタリアの聖人の名前が、北米太平洋岸のこの町の名前になっているのか。その間をつなぐのが、1492年のコロンブスによる新世界到達に始まる、スペインの南北アメリカ大陸への植民の歴史というわけだ。 ▼スペインとカリフォルニア スペインは、アステカ帝国とインカ帝国を滅ぼし、新世界の統治にあたってそれらの地を拠点とした。ひとつは、今日のメキシコを中心とするヌエバ・エスパーニャ(新スペインの意)。もうひとつはペルーである。これらには、国王の代理としての副王がそれぞれ置かれ、副王領として統治された。 そのヌエバ・エスパーニャの辺境の地として、開拓されたのがカリフォルニアだ。冒頭で述べた、幼き日の私の疑問に戻ろう。カリフォルニア半島は、なぜ「バハ」と呼ばれるのか。「バハ」とはスペイン語で「低い、下の」の意味だ。先に植民が進んだ南部のカリフォルニアはバハ・カリフォルニアと呼ばれ、これは今日のメキシコのカリフォルニア半島辺りを指す。それに対してアルタ・カリフォルニア、つまり上カリフォルニアと呼ばれていた一帯は、北側の今日のアメリカ合衆国カリフォルニア州にあたる。 ▼カリフォルニアへの植民とミッション スペインは、ローマ教皇の勅書によりパトロナート・レアルと呼ばれる体制を確立していた。これは、王権が教会の保護者となり、教会を従属させる制度だ。つまり本来はバチカンに従属すべきカトリック教会が、スペイン領内においてはスペイン王の意のままとなり、聖職者の任命も国王が行えるのだ。これによって、キリスト教の宣教は、征服、開拓の活動と一体化し、教会はそのための主要な機関となる。 パトロナート・レアルを背景に、スペインは辺境の開拓、植民を進めるにあたりミッションを建設していった。ミッションというのは、先住民のキリスト教化と、ヨーロッパ式の生活様式を教えるために先住民を集住させる場である。カリフォルニアにおいては、まずは、バハ・カリフォルニアにイエズス会士によってミッションが建設されていった。イエズス会というは、スペイン人であるイグナチウス・ロヨラによって創始されたカトリック修道会である。余談ながら、東京にある上智大学は、この修道会が経営母体だ。 ところが1767年、イエズス会士が全スペイン領土内から追放されることとなったため、フランシスコ会が取って代わることとなった。その流れの中で、アルタ・カリフォルニアもフランシスコ会主導でミッションが次々に築かれていった。 サンフランシスコの市庁舎から南に向かった辺りに、ミッションという地区がある。話されている言葉もほとんどスペイン語で、その中心を歩くと、まるで中南米の町にでも迷い込んだかのような錯覚に陥る。 ここに、ミッション・ドローレスとして知られる教会がある。サンフランシスコの起源でもあり、観光客が必ず訪れる場所だ。このミッション、正式名称をサンフランシスコ・デ・アシスと言う。アッシジの聖フランチェスコの意味だ。フランシスコ会によって1776年にこの地に開かれたミッションである。 |
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新・旧 Mission Dolores建物
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正面入口
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新Mission Dolores
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旧Mission Dolores Basilica
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内部
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内部 横祭壇
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展示室
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脇 通路と展示写真
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フニペロ・セーラ
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墓地からの眺め
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もしもイエズス会の追放がなかったなら、その後もイエズス会によりアルタ・カリフォルニアのミッションが建設され、サンフランシスコという町の名前もなかったかもしれない。 ▼プレジディオとゴールデン・ゲート・ブリッジ 今日のサンフランシスコは、北側のマリン郡に向けて、太平洋から湾への入り口上にゴールデン・ゲートが架かっている。この橋のたもとあたりは「プレシディオ」と呼ばれる地区だ。プレシディオとは、「要塞、駐屯地」の意味のスペイン語で、このプレシディオとミッションをスペインが建設したのが、サンフランシスコの始まりである。当時、北からロシア、西からイギリスの脅威が迫っていたスペインは、宣教施設であったミッションとともに、砦をここに築いたというわけだ。 ゴールデン・ゲート・ブリッジは、その名前から金色を思い浮かべる人が多いが、実際は赤く塗装されている。ならレッド・ゲート・ブリッジじゃないかという人もいるが、橋の名前の由来は、その色ではない。この橋のかかるサンフランシスコ湾の湾口がゴールデン・ゲートと呼ばれるからだ。ゴールデン・ゲートは、湾の大きさに比べて非常に狭く、霧が立ち込めることも多いため長い間発見されなかった。 しかしスペイン統治、その後のメキシコ独立によるメキシコ統治時代には、サンフランシスコは、それほど大きな役割を持った町ではなかった。その状況が一変するのは、米墨戦争によってメキシコ領からアメリカ合衆国領となり、直後にシエラ・ネバダで金鉱が発見されてからだ。ゴールドラッシュが起き、1849年にフォーティーナイナーズとして知られる人々が世界中から押し寄せたのだ. 【筆者プロフィール】http://yasuoda.com をご参照ください。 |
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────────────────────────────────────── ★TOKYO旅倶楽部のウェブサイト新装オープン! http://www.club-tabi.com/ ────────────────────────────────────── GEOのサブグループとして、1997年に活動を開始して以来、世界の旅から身近な街の再発見まで、ユニークな活動を続けてきたTOKYO旅倶楽部のウェブサイトが新たに生まれ変わって登場しました。 東京・都市・地域文化に関わるニュースを集めた「街ニュース」や新聞にも取り上げられた「奥多摩廃村探訪」、都市遊歩案内、今までのオフ会の記録などなど。美しいサイトデザインに、内容も盛りだくさんです。 |
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updated:2002.05.10
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