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★「忍耐と寛容」の国、イギリス(その2)
―― 活気あふれる「政治」と「メディア」
有留 修(在上海ジャーナリスト・コンサルタント)
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<政治>
イギリスに生活して身近に思えたことの一つが政治です。さすが民主政治発祥の地といえるのでしょうが、議会におけるディベートは見ていて面白く、政治に多くの紙面や時間を割くメディアを通じて、生活と政治の距離が近いことを痛感しました。特に驚いたのは、日本よりもかなりの度合いで各大臣の権限が大きく、彼ら個人のプレゼンスが大きいということです。ブレア首相をはじめとして、中でも存在感が大きいと思ったのがブラウン大蔵大臣、ブランケット内務大臣などです。
その個性あふれるキャラクター同士の関係、何と表現すればいいのでしょう、持株会社の会長とその下にあるさまざまな企業の社長の関係とでも表現すればいいでしょうか。持ち株会社会長、ブレア首相の下で、個別企業の社長である各大臣が割合と大きな自由裁量権を与えられ活動しているのです。たとえば、この中でもっとも権力の大きいと見られる大蔵大臣の場合、予算案が出された場合など、「ブラウンの予算案」と個人名付きでメディアに登場します。日本だと、こうはいかないでしょう。せいぜい同じ会社の中の社長と部長の関係に近いのではないでしょうか。小泉社長の下、各大臣が部長としての権限を与えられている。イギリスに比べると、権限においても個性の発露にしても、はるかに小さいといえるのではないでしょうか。まずは、こうした個人のプレゼンスの大きさに驚いた次第です。
<ブレア首相>
最初、ブレア首相を見たときの感想は「なんだか、クリントンみたいで、信念がないんじゃないかな」というネガティブなものだったのですが、それが次第に好意的なものと変わっていきました。特にイラク戦争への参戦をめぐる論議を通じて、彼のすごさが次第にわかってきました。もちろん、専門家の中には、「一度アメリカ支持を打ち出した以上、引くに引けなくなってしまったのだ」という人もいました。要するに、最初からそれを意図したわけではないという意見です。確かにそういう側面もあるでしょう。しかしながら、議会での議論だけでなく、参戦に反対する一般市民との対話に積極的に応じて、自分の信じるところを粘り強く説得するブレア首相の姿からは、正直言って、何か「真摯」なものを感じないわけにはいきませんでした。何といえばいいのでしょう。「シニカル」になりがちな政治に対する人々の姿勢を何とか持ちこたえさせてくれるだけの、「真面目さ」がそこにはあるのです。
ブレア首相は一貫して欧州(あるいは国連)とアメリカの間をとりもち、何とか妥協点を探ろうと懸命に努力したわけですが、結局のところ、最後はアメリカの言う方向に引っ張られてしまった感があります。しかし、いくら「アメリカのプードル犬」と呼ばれようともその信念を貫いた政治家ブレアの姿には、やはり敬意を表すべきではないかと思います。この「信念」ということに関して、次のような印象的な発言を思い出さずにはいられません。イラク参戦に対する反対が賛成派を凌駕していた時期、ある集会でブレア首相が言った言葉です。
「わたしは歴史的な偉大さを求めるために、自ら不名誉を求めるものではない」
確かに、あの時期、彼はほとんど孤立無援の状態に近く、非常に苦しかったと思います(2月中旬には各地で、イギリス史上最大の反戦デモもありました)。与党である労働党から離反者・反対者が続出し、「もはや彼の政治生命も絶たれた」という観測まで流れていたほどです。それでも、彼は信念を曲げなかった。それは、政治家として非常に高貴な態度だと感じました。そして、このような政治家をいまだに排出できるイギリスをうらやましく思うのでした。ほんと、たいした政治家です。逆にいえば、今回のイラク戦争がブレアを偉大な政治家に育てたのかもしれません。ちなみに、サッチャー元首相にも「フォークランド戦争」という大きな成長の機会がありました。
ただし、その偉大なるサッチャー女史と比べた場合、まだまだ見劣りがするのも事実です。それまで停滞していたイギリスの経済、社会を独自の信念に基づいた「革命」により、変革せしめたサッチャーと違い、ブレアには国内政策の面で彼女に匹敵する業績が上げられていないからです。ある意味、サッチャー革命の落とし子としてその後現れたさまざまな問題−拡大する貧富の格差、麻薬問題、犯罪問題など−それを是正するのが本来の労働党の目指す方向であり、ブレアが政権奪取する際に主張した「第三の道」はそのためのロードマップだったのでしょうが、それがうまくいっていないというのがブレア政権の国内政策といえるでしょう。
とはいえ、彼の真摯な態度が、シニカルな日本の政治家を見慣れた目には非常に新鮮に映ると同時に、うらやましく思えるのでした。国内政策でも大きな成果を出して、真の偉大なる政治家となれるのか、ブレアの今後が気になります。
<メディア>
さて、次はメディアの話です。アメリカと異なり、イギリスはずばり新聞主導型のメディアだと思います。長年BBCがほぼテレビメディアを独占していたせいもあるでしょうが、断然、新聞メディアのほうが元気で威勢があります。
新聞には大きくわけで二つの種類があり、「サン」「デイリーミラー」のような「タブロイド」と「タイムズ」「ガーディアン」「インディペンダント」のような「ブロードシート」と呼ばれるものがあります(「ブロードシート」は文字通り紙面が「タブロイド」より大きい)。「タブロイド」紙は、どちらかというと一般庶民(あるいは労働者階級)向けの新聞で、たいがいがセンセーショナルで少々扇動的な報道が目立ちます。一方の「ブロードシート」は、いわゆる知識人向けのもので、内容的にもセンセーショナルな要素が少ないこともあり、イギリス理解、世界理解のためには、もっぱらこちらの方を買って読んでいました。
双方に共通していえることは、新聞によって思想的方向性がほぼ決まっていて、割とわかりやすい構造になっているという点です(特に「タブロイド」紙はその傾向が高く、ときとして大がかりな政治・社会的キャンペーンを展開したりすることもあります)。前述のイラク戦争に関していえば、メディア王、マードックが所有するタイムズなどは積極的参戦を唱え、やや左のガーディアンなどは反戦的な記事を掲載していました。さらに、どの新聞も分量が半端ではなく、一日分のものを読むだけでも相当な時間がかかるのが問題でした。ある元新聞記者いわく、「70年代にはページ数も少なくて、いまと比べると、だいぶのんびりしていた」ということです。日本の新聞のように新聞休刊日なんていう便利な制度もないでしょうから、毎日これだけの情報量をこなすのは大変な作業だと思われます。
(注)ちなみに新聞の値段ですが、タブロイドで30ペンス程度、ブロードシートで50ペンス程度ですが、土日になりますと分量がさらに増えるので、その倍以上になります。(現在の為替レートは1ポンド=190円程度)
ここでも気づいたのは、各新聞の編集長が非常に表に出てくるということです(特にタブロイド紙。ブロードシートは控えめでしょうか…)。一種の有名人です。政治家と同じで、彼ら一人ひとりのプレゼンスが非常に大きく、その個性が誌面に反映されることが期待されています。これはアメリカの新聞以上のものがあるのではないでしょうか。ここまで個性を大事にするといいますか、前面に出すイギリスのメディアの姿勢には、正直言ってびっくりしました。
先ほど、テレビメディアの存在感が薄いと書きましたが、若干、テレビにも触れておきましょう。BBCの独占が終わり、いくつかの民放が誕生しています。一般的にいって、日本に比べるとおとなしいものです。ドタバタ番組はそれほどないし、たまに「ビッグ・ブラザー」のような正直いってくだらん「実験的番組」もあるにはありますが(ただし、これが業界ではまれにみる大ヒットを記録)、ニュース、ドキュメンタリー、ドラマ、クイズショーなどが主な項目です。中でもすごいと思ったのはドキュメンタリー。さすがイギリスといいますか、ほぼ毎日ドキュメンタリー番組があり、非常に勉強になりました。ロンドンを離れ、それが観られなくなったのは、本当に残念です。
他に特徴的なものを挙げれば、さすが旅行者の多い国だけあって、「トラベル」関係の番組が多くあるほか、非常に関心を持ってみたのが「家」に関する番組です。さすが家好き国民といいますか、家の改装に関する番組、海外で家を買いたい人向けの番組、自分で物件を買って、それを改修して人に売りたい人の番組とか、「家」をテーマとしたありとあらゆる番組があります。そして、これがおもしろい。もちろん、ガーデニングに関する番組もあります。いずれにせよ、趣味に関する番組が多いのもイギリスのテレビ番組の特徴と言えるでしょう。こういう番組を通して、イギリスという国、そしてイギリスの見た世界について非常に多くを学ばせてもらった気がします。
(次回は「社会」「経済」「建築」「ナショナリズム」などについてお伝えします)
★付録:ロンドン生活で撮りためた写真を集めたフォト・ギャラリーもありま
すので、ご覧ください。http://www.osamuari.orbix.uk.net/uk.htm
【筆者プロフィール】
時事通信社外信部、TBS国際報道局などを経て、93年渡米。ワシントンDCのSAIS(ジョンズホプキンス大学高等国際問題研究大学院)にて米外交政策を専攻(特にそのアジア政策)。帰国後はインターネットメディアの世界に身を置き、マイクロソフト社ではMSNのニュース番組の立ち上げを指揮する。その後、自ら有限会社を立ち上げるも失敗。00年から上海に渡り、中国初の日本語ビジネス情報誌の創刊に携わるが、法的および人的問題に直面し、同誌は別の媒体と合併。それを機に上海を去り、02年6月からロンドンで発行される日本語週刊紙の編集長に就任。が、上層部との対立から同年末にはクビを宣告される。03年春、再び上海に戻り、出版や教育分野を中心に執筆およびコンサルティング業務を手がける予定。
Email:aridome@sh163.net
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