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II. サンチアゴ巡礼の道について
(i) その起源と歴史 スペイン・ガリシア地方の西部に位置するサンチアゴ・デ・コンポステーラはエルサレム、ローマと並ぶキリスト教の聖地であり、毎年多くの巡礼者が訪れる。「サンチアゴの道」とは中世から続くこのサンチアゴ・デ・コンポステーラへと向かう巡礼の道である。 「サンチアゴの道」の起源は9世紀初頭にまでさかのぼる。 ガリシア地方の山林でキリスト十二使徒の一人、聖ヤコブの墓が発見されたという。伝説によれば813年のある夜、一人の羊飼いが、異様に低く輝く星と天使の合唱に導かれるように行ったところ、林の奥の洞窟のなかに、直径2mもあるアコヤ貝に包まれた遺骨が発見したというのだ。真偽のほどは定かでないが、この話は、エルサレムで処刑された聖ヤコブの遺骨が海路をガリシア地方に運ばれ、埋葬されたという6世紀頃からの伝説とあいまって、サンチアゴ(聖ヤコブ)の墓が発見されたというニュースとして広まった。そして当時のアストゥーリアス王アルフォンソ2世がこの地に小さな教会を建てるとしだいに巡礼者が訪れるようになったということである。 付近は当時、カンポ=デ=エストレーリャ[Campo de estrella・星の原、の意]と呼ばれていたが、のちに縮まってコンポステーラ、それに聖ヤコブのスペイン語読みサンチアゴが冠し、サンチアゴ・デ・コンポステーラとなった。また「コンポステーラ」とは「墓地」を意味するラテン語 Compostum に由来するとの説もある。近年の発掘調査では確かに今のサンチアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルのあるところはもともと墓地だったということが確認されている。 この当時、スペインはイスラム教徒の侵入を受け、8世紀に渡って国土の大半がイスラムの支配下におかれるようになる。この危機にあってなんとかスペインの、そしてカトリック世界の一体感を鼓舞しイスラムに対抗しようとしたのがクリュニー修道会であった。その目的のために彼らはガリシア地方の聖人伝説に目をつけた。 クリュニー修道会はサンチアゴ巡礼を奨励し、周辺の王候貴族は教会や橋、巡礼者のための宿泊施設などを整備し、その保護に努めた。サンチアゴに巡礼すれば全ての罪は許され天国にいくことができるという魅力に中世の人々は取りつかれ、12世紀には年間30万人から50万人がサンチアゴを訪れたという。こうしてサンチアゴの道はヨーロッパ世界の精神・文化のきずなとなり、カトリック勢力の国土再征服運動・レコンキスタも進んでいったのである。 しかし1492年にレコンキスタが完了、スペインに統一国家が誕生し、新大陸が発見されるとスペインの中心は新大陸貿易の拠点港・セビリアに移り、サンチアゴ巡礼に対する人々の興味は薄れていった。さらに1517年ドイツでルターが宗教改革をおこし、贖罪的性格を持つ巡礼を否定することでサンチアゴの道の衰退は確実なものとなった。 1879年、1946、1959年にはサンチアゴのカテドラルで発掘調査が行なわれそれぞれに成果を挙げるが、それはサンチアゴの道への人々の関心を強く引きつけるまでには至らなかった。 そして1985年、サンチアゴの道の復活のきっかけは外部からもたらされた。ユネスコがサンチアゴ・デ・コンポステーラを世界遺産 (Patrimonio de Humanidad) として認定したのである。これに続くかのようにEC委員会もサンチアゴの道を「ヨーロッパ文化の第一行程 (Primer Itinerario Cultural Europeo) 」と定めた。これにより各自治州はそれぞれに道の保護条例を定めたり施設の拡充へと動きだしたのである。 昔ながらの信仰・贖罪のためか、歴史的関心からか、ECが統合されようという現在にきて再び人々はかつてヨーロッパ各地からの人が歩いたこの道を歩き始めた。サンチアゴの道は復活したのである。 (ii) その名称 中世から続くスペイン・ヨーロッパカトリックの巡礼の道「サンチアゴの道」といわれる道は一本ではなく4本の道の総称的な呼び名である。もちろんその行き着くところはサンチアゴ・デ・コンポステーラである。 このうち2本の道はヨーロッパの各国に端を発し、ピレネー山脈を越えてスペインに入るものである。一つは「Camino del Norte (北の道)」と呼ばれ、フランスの海岸側からスペインに入り、カンタブリア海側に沿ってサンチアゴに向かう。もう一つが「Camino France's (フランス人の道)」と呼ばれ、「サンチアゴの道」の主要道である。この道はフランス内の4ヶ所から出発し、2本にまとまったのちピレネーを越えプエンテ・ラ・レイナでひとつにまとまり、「北の道」の南側を平行してサンチアゴに向かう。今回私が歩いたのがこの道である。これ以後「サンチアゴの道」とはこの「フランス人の道」を指すこととする。 他の2本の道はイベリア半島の南西部を通る道である。まず一つ目がポルトガル国内を通る「Camino Portugue's (ポルトガルの道)」。もうひとつがスペインの南西部を通る「Camino del Sur (南の道)」または「Camino de la Plata (銀の道)」である。 これが「サンチアゴの道」4本であるが、このほかにイギリス人やアイルランド人などが船を使ってサンチアゴに向かった海の道もある。 (iii) 聖ヤコブの年 (El An~o Santo) 聖ヤコブはサンチアゴ・デ・コンポステーラのあるラコルーニャ県、そしてスペインの守護神でもあり、聖ヤコブの日、7月25日は国の休日である。そしてサンチアゴの日が日曜日に当たる年は「聖ヤコブの年(El An~o Santo)」と呼ばれ、この年にサンチアゴに巡礼した者は全ての罪が許されるとされている。最初の聖ヤコブの年は1122年であり、以後11, 6, 5, 6年の周期でやってくる。私が歩いた1993年は11年振りの聖ヤコブの年でいつもより多くの人がサンチアゴを訪れた。そして今年、1999年は20世紀最後の聖ヤコブの年であり、前述の通り一種のブームとなっているようである。 サンチアゴのカテドラルの裏手に「聖なる門(Puerta Santa)」と呼ばれる門がある。この門は聖ヤコブの年にだけ開かれるものである。私はその開かれたところを目にすることができたのだが、扉の石柱に彫られた十字架は、何世紀にもわたり人々が神の御加護を願いつつ十字をきったせいで真黒になっていた。 (iv) カリスティアヌス本または聖ヤコブの書 (Codex Calixtinus) 「サンチアゴの道」について語る場合必ずといてよいほど引合に出されるのが「Codex Calixtinus (コーデックス・カリスティヌス)」という書物である。日本語では「カリストゥス本」または「聖ヤコブの書」と呼ばれるこの書物はキリストの十二使徒のひとりであり、スペインの守護聖人である聖ヤコブ(サンチアゴ)の栄光を賛えるために作られたもので異なる5つの文書から構成されている。それぞれ成立年代も作者もはっきりとはしないが12世紀ごろにまとまった形になったとされている。原本はコンポステーラ司教座聖堂参事会の古文書中に保管されている。内容は儀礼や奇跡についての文書、書簡や詩などだが、中でも有名なのが第5巻の「巡礼の案内」である。 |
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updated:2001.7.31
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