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スペイン・サンチアゴ巡礼の道
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III. 旅日記から

<< Extra - 到着後 >>

 旅日記の中で述べた通り、私は巡礼の意義とはその過程にあると思っている。過程そのものに意義があるのだとすれば、到着地であるサンチアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルに辿り着くことはその結果でしかない。故に本来はあまり到着後のことについて、述べるべきことはないはずなのだが、私にとっては忘れ難い思い出となったある事件が起こったのでそれについて述べておきたい。

*** *** *** *** *** ***

 11月15日午前10時30分に私はミゲル達と共にサンチアゴ・デ・コンポステーラのカテドラルに着いた。しばらくカテドラルの中でボーッとしたあと教会のすぐ近くにある。巡礼者のための事務所を訪れた。巡礼を終えた証明書である「コンポステーラ」をもらいにいくためである。「コンポステーラ」はガイドブックや新聞の記事によると「精神的、宗教的または宗教・文化的な動機により、徒歩なら100km以上、自転車でなら200km以上の巡礼を行った者」に与えられる。私は旅の中盤でマノーロに教えてもらったのだがそのラテン語で書かれた証明書をもらえることをひそかに心待ちにしていた。

 事務所にはミゲルとティナとホセの4人でいった。こざっぱりとした事務所の受付の女性を前にして、私達はまず名前と住所、出発地、動機、形態などをノートに記入した。そして記入し終えたミゲルたちから「コンポステーラ」が手渡されていった。そして私の番となり、受付嬢の前に立つと彼女は私を見るなり、「あなたはキリスト教徒ですか」と聞いてきた。私は、一瞬ためらったがすぐ「いいえ」と答えた。すると「コンポステーラはキリスト教徒でない人には与えられない」といってコンポステーラとは異なる簡素な証明書が手渡された。ミゲルとティナはキリスト教徒ではない。彼らには何も質問はしなかった。私は納得がいかなかったので食い下がった。すると彼女は「私には裁定する権限がない。もう少し待てば責任者が来るので彼に掛け合って下さい」といってその場から離れた。
 間もなく事務所の責任者がきた。私は彼にロンセスバージェスで証明書(スタンプ帳)を神父に発行してもらう際に提示した推薦状と動機を書いた紙をみせて何とか「コンポステーラ」をもらえないか頼んだ。するとこの後、カテドラルで行われる「巡礼者のミサ」が終わったらもう一度事務所に来るようにいわれた。仕方なく、不安な気持ちのままミゲルたちと事務所をでてカテドラルへと向かった。

 「巡礼者のミサ」では伝統に基づく有名な「ボタフメイロ」という儀式が行なわれた。天井から吊るされた巨大な香炉に香が焚かれ、翼廊いっぱいに振られる。カテドラルとミサに出席した人々はそのけむりに包まれる。これは中世、ここに辿り着いた巡礼者の悪臭を消すために行なわれたのが起源とされている。

 また「巡礼者のミサ」ではその日の午前中についた巡礼者達が紹介された。名前はいわないが出身地と出発地がマイクを使って高らかな声で読み上げられていった。ホセが紹介され、ミゲルとティナが紹介された。「残るは自分一人」というときにきて紹介は終わった。「出身地は日本。出発地はロンセスバージェス」、スペイン語を専攻して5年、こんな簡単な文を私が聞き逃すはずはない。私はここでも教会に拒否された。


<ボタフメイロ>


<香を焚いた香炉を吊るして左右に振る>

 「巡礼者のミサ」が終わるとすぐさま事務所を訪れた。しばらく待つと先程の事務所の責任者からスペイン語で書かれた「コンポステーラ」に似たものが渡された。これでも私は納得がいかなかったが「自分のためにわざわざ作ってくれたものだから」と自分自身に言い聞かせ、事務所をあとにし、ミゲルとティナと共に、伝統に基づいて3日間だけ滞在が許される救護所へと向かった。よく晴れた日で救護所の前からはカテドラルと市内がよく見渡せた。救護所が開くまで時間があったので少しパンなどをかじって、国際電話で両親に無事着いたことを報告した。そうしているうちも何か心のもやもやは晴れなかった。

『カトリックの巡礼の道だから、カトリックでない私に「コンポステーラ」が渡されないというのであれば、なぜ全ての巡礼者に質問しないのか。なぜ新聞やガイドブックにそう掲載しないのか。あそこでもう少し食い下がればよかったのか。そうもいかなかった。今となっては遅い。
 自分は嘘もつけた。あの質問にハイ、と答えておけばまんまと「コンポステーラ」は手に入ったのだ。しかしそれは嫌だ。嘘をつきにここまできたんじゃない。巡礼の意義はその過程にある「コンポステーラ」はただの結果だ。そう重要なことじゃない。あまり気にし過ぎることは自分が今まで考えていたことに反することになる...。』 頭が混乱してうまく考えをまとめることができないままその日は終えた。

 次の日ミゲルとティナとサンチアゴ・デ・コンポステーラから30km程離れたところにある、「地の果て」を意味する岬フィニステル Finisterrre を訪れた。ともかくここで一つの旅は終わった。夕方、さっぱりした気分で救護所に帰るとジョルディもマノーロも着いていた。この話をすると二人とも自分のことのように怒ってくれた。嬉しかった。無神論者であるジョルディもやはり何の質問も受けず無事に「コンポステーラ」を手にしたのだが、『教会の奴らは畜生だ。こんなもんいるか。あいつらはそうやって「コンポステーラ」を配布することで世界をキリスト教化しようってんだ。』と怒っていた。そんな姿を見ていたら何だか心もなごんできた。

 だが「巡礼の道は差別のない道」と信じてきた自分にとってその終着であるサンチアゴ・デ・コンポステーラの教会に差別的な扱いを受けたことは忘れられなかった。そこで、サンチアゴ・デ・コンポステーラを離れ、大学の友人を訪ねるために訪れたサラマンカで自分の気持ちを整理するためにも私は大学のブラーボ先生に以上のようなことを手紙に書き、手紙の最後をこう結んだ。
 『さて、もうこれ以上教会の悪口は書きません。なぜならこの旅の目的は「コンポステーラ」をもらうことではなく、サンチアゴ・デ・コンポステーラまで歩き続けることにあったからです。巡礼の意義はその過程にあると思います。「コンポステーラ」は結果の一つです。それがもらえなかったことは、正直いって、やはり残念ですが、もうこれ以上こだわらないことにします。経験は一枚の紙よりもずっと価値のあるものですから。』

 帰国後、ブラーボ先生に会うとブラーボ先生はやはり自分のことのように憤慨してくれて、「これは不正です。多田さん、このことをスペインの新聞社などに投稿しましょう。」と提案してくれた。私も何らかの形で意見は述べておきたいと思っていたのだが、先生の勧めもあって結局、新聞社二社と私が訪れたサンチアゴ・デ・コンポステーラの巡礼者の事務所、そしてカテドラルの司教に手紙を出すことにした。内容は私がブラーボ先生に宛てた手紙を使い、先生が校正をしてくれた。
 そして一ヶ月後、学生最後の試験を終えて学食でくつろいでいるとブラーボ先生が満面笑みを浮かべてやってきた。その理由はすぐに分かった。スペインの最有力紙エル・パイスの国際版の1月10日付け「編集長への手紙」に私の投稿は載ったのだ。何はなくとも二人で小踊りして喜んだ。そして後日マノーロからも手紙が届いた。日刊のエル・パイスにも載ったというのだ。しかもノーベル賞作家でペルーの前大統領候補マリオ・バルガス・リョサ氏と紙面を共有していた。

 この訴えもむなしく、巡礼者の事務所およびカテドラルからは何の返事もなく、結局私は「コンポステーラ」を手にすることができなかった。しかし、後日、エル・パイス紙に依頼して私の投稿の掲載された日刊紙を一部送付してもらったのであるが、これが私にとっての「コンポステーラ」となったと思っている。


< La Compostela >


<エルパイス紙(1994/1/2付)
に掲載された投稿>
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updated:2001.7.31