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スペイン・サンチアゴ巡礼の道
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IV. サンチアゴの道についての各種トピック

5.道沿いの街や村

 有名な教会があるばかりが面白い街や村の条件ではない。ここではサンチアゴの道沿いの特色のある街や村をいくつか紹介しよう。

(i) ロンセスバージェス Roncesvalles

 ロンセスバージェス(フランス名 ローンズヴォー)はフランス国境から8km程のところにあり多くの巡礼者がその出発地とするところである。ピレネーのふもと、標高約900mのこの小さな村はかつてカール大帝がサラゴサ遠征の帰路にここを通ったとき待ち伏せていたナバーラ人に急を襲われ、愛する甥ローランを失った悲劇の古戦場である。そしてこのことを歌ったのがフランスの武勲詩「ローランの歌」である (武勲詩ではアラブ人に襲われたとある)。
 ここには教会、修道院のほかにはレストランと観光案内所と家が数軒あるだけで、とても静かなところである。私が着いたときはよく晴れた穏やかな日で、夕方には丘の並木の向こうに沈む夕陽がきれいだった。
 その日は救護所を兼ねた修道院に泊まったのだが、私のほかには一人もいなかった。教会の人によれば10月までにここを14,000人以上の巡礼者が通過または出発し、夏の一番多い日には787人もの巡礼者がここに泊まったそうで、その時はさすがに足の踏み場もなかっったということであった。


<修道院・救護所も兼ねている>

(ii) パンプローナ Pamplona

 紀元前75年にローマ人によってつくられ905年にナバーラ王国の首都となり発展していった。街の中心部を少し離れると広い公園や大学もあり、全体として落ち着いたしっとりとした印象をうける。石畳の細い小道の入り組んだ旧市街は趣があり、ただ歩いているだけでも飽きない。
 だがそんな静かな街も7月6日から一週間の間だけは狂騒の街に豹変し、人々は夜を明かして飲み騒ぐ。ヘミングウェイの小説「日はまた昇る」の中で紹介され世界的に有名になったサン・フェルミン祭があるからだ。テレビなどでもおなじみの危険な牛追いレースもこの期間中に行なわれる。
 また日本ではあまり知られていないが、ツール・ド・フランスなどで何度も優勝したヨーロッパの自転車競技の英雄、ミゲル・インドゥラインの故郷はこの近くであり、地元の英雄である彼のポスターをあちこちで見かけた。

(iii) プエンテ・ラ・レイナ Puente la Reina

 ピレネー山脈を越えてきた2本の道はこの地で一つに合流しサンチアゴ・デ・コンポステーラへと向かう。町の入り口には巡礼者の像があり、その足元にはこう彫られている。「そしてここからはサンチアゴへ向かう全ての道は一つとなる。」


<巡礼者の像>


<足元の碑文>

 この町は宿場町でもあり、別々の道からやってきた巡礼者たちがここで顔をあわせる。私自身、旅の友となるマノーロとジョルディとはここで知り合った。
 この町の名を訳せば「女王の橋」となるのだが、これは11世紀初めにドーニャ・マヨール女王によってアルガ川に橋が架けられたことに由来している。この橋は町の出口にあり、現在もその美しい姿をとどめている。

(iv) サントドミンゴ・デラ・カルサーダ Santo Domingo de la Calzada

 11世紀、ドミンゴという男はその生涯を巡礼者のための道路の建設に捧げ、没後、聖人位が授けらた。そしてその遺体を収用するために教会が建てられこの町が生まれることとなった。地下にその聖ドミンゴが眠る教会には、珍しく鳥小屋があり雄雌一対の白いニワトリが飼われている。これには次に紹介する逸話がある。

 ある時、この町を訪れた若い巡礼者が、泊まった宿で泥棒の汚名をきせられ処刑されてしまった。その両親が死体を引き取りに処刑場にかけつけてみると、驚いたことに息子はまだ息がありこう言った。「聖ドミンゴ様が足元から支えてくださったおかげで私はまだ生きています。大丈夫です。」両親はさっそく裁判官に息子を首吊り台から降ろしてくれるよう頼んだが、まるで相手にされない。裁判官は食事の準備中でちょうど串焼きのおんどりとめんどりが火にかかっていた。そこで「あの丸焼きになった鶏が鳴き出したりでもしたら、息子さんは生きていると信じましょう。」と言った。すると丸焼きになっていたはずの鶏が生き返って飛び立った...。

 この逸話の出所は12世紀の「カリストゥス本」であり、事件は1090年におこる。その時点ではニワトリの話はなくもっとシンプルなものであったらしい。伝説とは時と共に人の手が加わり豊かになっていくものらしい。


<カテドラル内部・ニワトリが描かれている>

(v) オセブレイロ O Cebreiro

 オセブレイロはガリシア地方の入り口にあたり、1000m級の峠にある小さな村である。ここを越えると人も言葉も景色も変わり、旅もいよいよ大詰めにきたことを知る。またこの一帯にはケルト起源とされる独特の超原始的な民家、パジャーソスが今も残っている。このうちの一軒が民族博物館となって公開されている。
 日本人の思い浮かべるスペインのイメージは一般的に白い家、青い空、情熱的な人々といったところであろうか。だがここはまるで違う。薄い石を重ねてできた家、深い緑、雨や霧が多く、人々は寡黙である。夜、霧のたちこめた石畳の道を歩いていると、ふとここがスペインなのかと疑問に思ってしまう。


<オセブレイロ近くの民家>

(vi) フィニステル Finisterre (ガリシア語では Fisterra)

 サンチアゴ・デ・コンポステーラより西に、もう2ケ所聖地がある。ひとつは聖ヤコブの遺骸を乗せた船が漂着したとされるパドゥロン。そしてもうひとつがこのフィニステルだ。フィニステルとは「地の果て」を意味する岬で、眺めのいい漁港がある。サンチアゴからバスで2時間ほどのところにある。
 私はサンチアゴについた次の日、ミゲルとティナの3人できたがその日は快晴で、眩いばかりの大西洋を目にすることができた。漁港から3キロ程歩くと岬の先端につく。そこからは海がどこまでもつづいている。くるところまできたんだな、と思うと胸がつまった。何百キロもの道を歩いてここに辿り着いた中世の巡礼者にとってここは正に「地の果て」に思えたことだろう。
 岬の三方は絶壁なのだが3人でなんとか下の岩場まで降りることができた。波が足元まで打ち寄せてきた。ここでミゲルとティナは結婚式を挙げた。お互いの髪を少しずつ切り、編み込んだうえ、両端を紐で結んだ後、海に向かって投げた。私は立会人として、それを見届け記念写真をとった。その後は野暮だと思い、一人先に上に登り、見晴らしのいいところでしばらくボーッと海を眺めた後、フィニステルをあとにした。


<フィニステル(地の果て)岬>

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updated:2001.7.31