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メルマガ/vol.10
2001.11.07
Contents

(1)カンボジアからの電子メール(3): 別荘の遺跡とホテルの遺跡と
  笹川 秀夫(日本学術振興会特別研究員)
(2)これが民主主義? シンガポールの総選挙
  勝間田 弘(英国バーミンガム大学大学院・在シンガポール)
(3)エンロンのそこにある危機
  荒木 裕一(アリックス・プロジェクト・マネジメント 代表取締役)

 サンフランシスコの小田です。皆さん,いかがお過ごしでしょうか?

 サンフランシスコ市内からは2つの大きな橋が,郊外に延びています。一つが太平洋沿いに北へと架かるゴールデンゲートブリッジ。そしてもう一つがサンフランシスコ湾をまたいで東側へと架かるベイブリッジです。

 これら2つの橋を含めて,先日カリフォルニア州のデービス知事が,カリフォルニアの4つの橋がテロリストの標的になっているので11月2日以降は気をつけろよ,と発表しました。

 私は,このうちの一つ,ベイブリッジのたもとに住んでいます。目の前の通りは橋の下を通るため,完全に通行止め。橋の真下は,鉄条網で囲まれ,羽でもなければ入れなくなってしまいました。ついでに目の前には大きな郵便局。炭疽菌の被害の拡大する中,標的に囲まれているような暮らしを元気でしています。

 さて,今回のGEO-G Magazineの内容ですが,読み応えのあるレポートや論考が揃っています。

 まずは,行動派の研究者,笹川さんのカンボジアからの電子メールの第3弾。前回の予告のとおり,プノンペンを立ってカンボジアの南への激しい調査旅行のレポートです。研究者としての姿勢も垣間見えるとてもお勉強になるエッセーですが,しっかりとカンボジアの海に遊びにいくなら,とバケーションの場所のお勧めもしてくれています。

 カンボジアの歴史って,ちょっと入り組んでて良くわからないんだよね,という方のために,近現代史の略年表のおまけつき。

 2本目は,第6号に「シンガポール七不思議」を執筆してくださった,イギリスの大学院かららシンガポールで調査中・研究中の勝間田さん。この間の週末,シンガポールで行われた選挙も模様を現地レポートしてくださっています。「開発独裁」ってこんな感じたよ,ということを最近の選挙の過程を見ることによって教えてくれます。

 3本目は,お馴染みIPOコーディネータの荒木さんの論考。10月末から株価が迷走を始めた米国企業「エンロン」を題材に,掘り下げた分析をしてくださっています。ネット企業の資金調達難には,もう皆慣れっこになっていますが,あのエンロンの株価暴落・資金調達難ですから,これは影響大ですね。財務諸表の分析を通して,電力のようなパブリックサプライの民営化の是非という問題にも切り込んでくださっています。(このエッセーは,10月26日の報道に基づき,荒木さんがご執筆くださったものです。)

 最後にちょっとお知らせ,11月30日(金)の夜にGEO GlobalのサブグループであるGEO bizの勉強会が大手町で開催されます。テーマは,「ベンチャービジネスの死角−誕生・成長・そして・・・」。詳しくは,行事案内等をご連絡するもう一つのメルマガGEO Global Newsでお知らせします。まだ配信登録をされていない方は,登録方法がこのメルマガの末尾にありますのでご参照ください。

小田康之(oda@geo-g.com: サンフランシスコにて)

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★カンボジアからの電子メール(3)「別荘の遺跡とホテルの遺跡と」
   笹川 秀夫(日本学術振興会特別研究員)
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 前回までに予告したお題は、公文書館での資料集めと、別荘の遺跡ということでした。10月20日から3泊4日でカンボジア南部に出かけ、別荘の遺跡のほかにホテルの遺跡も見てきたので、以上3点が今回のお題となります。

 20日の朝、プノンペン市内の市場プサー・ダウム・コーからシェア・タクシーに乗り、南部を目指しました。国道3号線を南下すると、タカエウ州(いわゆるタケオ。自衛隊がPKOで行ったところです)までは綺麗に舗装されているものの、タカエウからコンポート(いわゆるカンポット)の間は、舗装道路にボコボコと穴があいています。プノンペンを発ってから、3時間ほどでコンポート着。まずはこの街に宿をとりました。

 このコンポート州で以前から気になっているのは、植民地時代の1920年代に実施された一種の教育改革です。フランス語による教育機関を作り、役人になる人材を育成することは、1863年に始まる植民地化の初期から行なわれてきましたが、1920年代のコンポートでは、仏教寺院に併設されていた寺子屋を公教育機関と認め、僧侶を教師として養成するという実験が行なわれます。1930年代には、こうした寺子屋の改革がカンボジア全土に広がり、フランス語とクメール語による複線型の教育制度が完成します。この複線型の教育は1953年の独立以後も継続し、1967年に高等教育もクメール語で実施することが決まるまで、カンボジアの教育は植民地の遺産を引きずっていたといえます。

 こうした植民地の歴史やなんかを調べるために、公文書館という場所に通って、役所の手紙なんぞをコツコツ読む作業をするわけですが、1920年代の教育改革については、南仏はマルセイユ近郊のエクサンプロヴァンスという街にある公文書館の資料を使ったフランス語の論文がすでにあります。何年に何があったかは、この論文を読めばわかるし、フランスで公開されている資料にどんなものがあるかもわかるんですが、結論は大いに問題という論文です。というのは、植民地の行政当局がどんな人間を創ろうとしたかという視点を欠き、教育を施してカンボジアが近代化されて良かった良かったという観点から問題をとらえているため、カンボジアのために、こんなに頑張ったフランス人がいましたという結論になっています。植民地支配って、そんなおめでたいものじゃないだろうと思うんですが。

 では、この教育改革をどう解釈すべきかというと、「クメール人」を人工的に増やす試みだったというのが現在の見通しです。コンポートという地は港町で、もともと中国系の住民が多いところでした。そのコンポートで、教育改革が行なわれたのと同時期に、人口統計の取り方が変更されたとのことです。すなわち、中国系とクメール人の混血を「中国人」として分類していたのが、1920年代からは「クメール人」として分類するようになりました。人口統計というのは、「その他」なんてえ項目を創り出すことで、人間を遺漏・重複なく分類し管理する近代が編み出した支配の方法の代表ですが、その人口統計が「クメール人」を意図的に増やしたのと同時期に、寺子屋を利用する教育改革が行なわれたわけです。ということは、この教育改革も、仏教寺院を利用することで、仏教徒たる「正しいクメール人」を人工的に増やす意図があったと考えられます。そうとでも考えないと、植民地の行政当局が人やお金を使って教育改革に一生懸命になったことの説明がつきません。

 今回の滞在中、プノンペンの公文書館でも、寺子屋の改革に関するフランス語の論文を読んだときと似たような印象を受ける経験をしました。植民地時代にフランスが「美術学校」という名で開設し、1965年以降は王立芸術大学となった学校について調べていたアメリカ人の研究者さんが、博士論文を書き上げたというので少し見せてもらったときのことです。ぼく自身、現在は植民地時代の文化政策を調べており、美術学校もテーマの一つなので興味を持って見たら、どうも中身に問題ありと感じました。

 詳しく中身を読む時間はなかったんですが、第1章が危機、第2章が救済というタイトルになっています。ここらへんが、問題ありと感じた理由。この「危機」だの「救済」だのというのは、美術学校の初代校長ジョルジュ・グロリエなる人物の語りに由来します。グロリエは、植民地化によってカンボジアが西洋文化の影響を受け、「伝統」が「衰退」の「危機」に瀕している、「危機」から「救済」するため、美術学校を設立しようと行政当局に訴えかけました。20世紀に入ってからの植民地支配は、19世紀までのように経済的に搾取するだけでは批判を浴びるようになり、「われわれは植民地のためにこんなに頑張っているんだ」と支配を正当化する必要に迫られました。文化政策というのも、植民地支配の正当化という観点から検討しなおす必要のあるテーマだと考えます。

 カンボジアが西洋文化の影響を受けることも、本当は「危機」なんかではなく、外からの影響を取り込んで、カンボジア文化がより豊かになる動きと解釈できるはずです。したがって、「危機」やら「救済」やらは、あくまでフランス人が支配の正当化のために語っているという意味で、カッコでくくる必要があります。これらの語をカッコなしで章のタイトルにまでしてしまった博士論文は、フランスによる植民地支配を正当化する言説を英語で再生産したと見なすべきでしょう。今後、全文を手に入れたら、批判の対象とさせていただく予定でおります。

 カンボジアでは、ポル・ポト時代(1975−1979年)にすべての資料が失われたかのような言われかたをした時期もありましたが、実際にはそんなことはなく、植民地時代以降の行政文書や官報を収める公文書館が手付かずで残っていました。内戦中に内部が少々荒らされていたものの、トヨタ財団などの援助で整理が進み、1999年初めから研究者に公開されるようになりました。こうした新しい資料を使うこと自体も、なにがしかの評価の対象にはなります。しかし、新しい資料を使うのはあくまで手段であって、新しい結論を導きだすことこそが本当の目的だと考えます。カンボジア研究で扱われる課題は、アンコール遺跡とポル・ポト時代の虐殺に極端な偏りが見られるため、手書きやタイプ打ちのフランス語の行政文書をコツコツ読むことで、新しいテーマを扱い、新しい結論を導きだす可能性は無限に広がっていると思います。ある意味、かなり恵まれた条件にあるんだから、新しい研究をしようよと思うんですが、なかなかその手の研究が出てきません。じゃあ、自分でやるかと、相当に前向きではあります。

 さて、南部に出かけた話に戻ります。10月21日、お目当てのカエプ(いわゆるケップ)に行ってきました。コンポートからバイク・タクシーに揺られること40分あまり、海岸沿いにシハヌック時代(1953−1970年)に建てられた別荘が遺跡と化して並んでいるのが見えてきます。別荘が遺跡になるのは、言うまでもなく20年にわたる内戦の間、放置されていたことの結果です。では現在、海も顧みられていないかというと、カンボジア人向けの憩いの場として機能してはいるようで、わらぶきの東屋が並び、おばさんたちがカニを売っています。でも、マリン・スポーツなんてえものは、もとより望むべくもない(そんなものに興味があって出かけたわけではないですが)。

別荘の遺跡の一例です。林のなかにひっそりと眠るというあたり、いかにも遺跡って感じですね。 近づくと、こんな具合。遺跡と化していなければ、けっこう立派な別荘とおぼしき建物です。
カエプの海岸です。別荘は遺跡化していても、海岸はカンボジア人向けのとして機能しているらしく、あずま屋が並んでいます。海のなかに立っているおばさんやお姉さんは、籠にカニを入れて売っています。水のなかに立っている必要はないんじゃないか?と思うんですが。
砂浜に、ブタが寝ていました。起きているのもいたから、死んでいるんじゃないだろうと思います。

 翌22日には、またシェア・タクシーに乗り込み、コンポートから3号線を西に向かい、コンポン・サオム(シハヌック・ヴィル)へと歩を進めました。全3時間の行程のうち、最初の1時間はタカエウ=コンポート間と同様に穴だらけの舗装道路です。つづく1時間が最難関で、高低差が1メートル近くはあろうかという凸凹の未舗装路になります。これだと車に弱い人は酔うだろうと思っていたら、予想にたがわず、同乗客のカンボジア人のおばさんと男の子が、窓の外やビニール袋のなかに吐きはじめました。

 残る1時間は、完璧に舗装された4号線と合流するため、快適なこと、このうえなし。なぜ路面状況がこんなにも違うかというと、カンボジアの現代史とおおいに関係があります。ロン・ノル時代(1970−1975年)の内戦中、3号線は早くからポル・ポト派の支配地域に入ってました。一方、4号線は、首都プノンペンへの補給路として使われ、米軍が舗装し、米軍が守っていたという歴史があります。

 さてさて、ここコンポン・サオムには、ホテルの遺跡があります。シハヌック時代に建てられたインディペンデンス・ホテルというのがそれで、いまや外国人向けの観光地となっているらしく、なかに入ると「幽霊が出るぞ」云々という英語の落書きが各階の壁に見られます。なお、コンポン・サオムには、こんな宿泊できないホテルしかないわけではなく、中国系のオーナーが経営する中級ホテルがどんどん増えています。

コンポン・サオム(シハヌック・ヴィル)にあるホテルの遺跡こと、インディペンデンス・ホテルです。なかなか立派な造りで、内戦前には高級ホテルだったろうと推察されます。 入り口のロビーに、門番らしき家族が住んでいます。1000リエル(約30円)払うと、なかに入れてくれます。そして、廊下はこんな風に荒れ放題。いかにも廃虚といった感じです。
お化けの落書き。ざっと見たところ、落書きは外国人観光客によるものしかありませんでした。最近、アンコール遺跡では、カンボジア人による落書きの方が目立つんですが。

 ということで、カンボジアで海に遊びに行くなら、コンポートやカエプではなく、4号線だけを使ってコンポン・サオムに行くことをお勧めします。とはいえ、悪路と嘔吐の臭いに耐えるのも、それはそれでカンボジアが歩んできた苦難の道をたどる修行だといえるでしょう。ここまで読んで。「よし、私もその3号線を通ってみよう」と思ったあなた、本当にツラいので、やめておいた方がいいです。

***************** カンボジア近現代史略年表 **********************
1863 フランスがカンボジアを「保護国」として植民地化
1884 フランス=カンボジア協約締結。フランスの権限強化
1917 プノンペンに美術学校設立
1921 コンポートで寺子屋の改革を試験的に開始
1924 コンポートに僧侶のための教員養成学校を設置
1930 寺子屋の改革を全国で実施することを決定
1934 僧侶のための教員養成学校を全国に設置
1937 クメール語紙『ナガラ・ヴァッタ』創刊、中国系、ベトナム系住民の商業支配を批判
1953 独立式典を実施
1954 フランスが外交自主権委譲、完全独立達成
1965 美術学校を王立芸術大学に改組
1970 ロン・ノル将軍らによるクーデタ、シハヌックを国家元首から解任
1975 ポル・ポト派軍がプノンペン入城、ロン・ノル政権崩壊、都市住民の強制移住
1979 ベトナム軍がプノンペン入城、ポル・ポト政権崩壊、ヘン・サムリン(正確には、ヘーン・ソムルン)政権成立
1991 パリ和平協定締結
1992 国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が活動開始
1993 総選挙実施、カンボジア王国成立
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【筆者プロフィール】
GEOでは、次のコロキウムのゲストスピーカーを務める。
●GEO1997年10月 第19回コロキウムカンボジア文化

GEOウェブサイトで公開している最近のエッセー
アンコール遺跡は「発見」されたか?

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★これが民主主義? シンガポールの総選挙
勝間田 弘(英国バーミンガム大学大学院・在シンガポール)
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 ご存知の方も多いかと思いますが、最近シンガポールでは総選挙がありました。結果は与党の勝利。しかし、シンガポールの選挙で注目するべきは、単なる結果ではありません。選挙の過程に目を向けると、この国の特別な政治制度をよく理解できます。そこで、今回の選挙についてレポートをしたいと思います。

 シンガポールでは1965年の建国以来、与党である人民行動党の一党支配が続いています。国会の議席の大半は、常に人民行動党が占めてきました。この国の政治体制は、表向きは競争的な選挙がある民主主義です。しかし、その中身を見てみると、通常考えられる民主主義というものとは全く異なる、特別な政治制度だと言えます。

 そのような特別な政治の特徴が最も良く表れるのが選挙です。端的に述べると、人民行動党が、自分達が必ず勝てる選挙制度を作っているのです。

 今回の、与党が圧勝した選挙の過程を追ってみましょう。まず、選挙区分けが与党に都合が良くなる形で行われました。恣意的な選挙区分けは毎回行われることなので、今さら特に驚くべきことではありません。

 しかし今回は、選挙実施の告知時期が異常でした。告知から立候補届けの期日までが非常に短く、数週間しかなかったのです。これは、野党に各選挙区で候補者を出す時間を与えないためです。この奇襲作戦は見事に成功しました。多くの選挙区では野党の候補者がいないまま、与党の自動的な勝利でした。

 さて、実際の投票日です。投票は義務付けられていて、しなければ罰金です。ただし、例外があります。もしも自分の選挙区では(幸運にも?)競争がなく与党の自動的勝利であれば、投票に行く必要がありません。投票日は祭日になるので、一日ゆっくりできます。

 私も、様子を見るために投票所に行ってみました。近くの小学校だったのですが、緊縛した雰囲気に驚きです。入り口では腰に銃を備えた警察官が張っており、人の出入りを規制しています。写真撮影は厳禁。写真も撮れないまま帰ってきました。

 選挙結果は、与党が84議席中82を押さえ圧勝。今後もまた人民行動党の統治が続きます。野党を勝たせてしまったり、野党議員の得票率を高くしてしまった地区は、これからが大変です。公団住宅の改装工事を後回しにされたりと、厳しい仕打ちが待っています。もしも住宅をきれいにして欲しければ、次回の選挙まで待たなくてはいけません。これがシンガポールの政治です。

 何だか悪いことばかり書いてしまったような気がします。でも、強い政府だからこそできることも多くあります。何と言っても、建国時には何もなかった東南アジアの小島を、わずか数十年間で地域一豊かな社会に育てたのは、他ならぬ人民行動党であるという事実には留意が必要でしょう。

【筆者プロフィール】
勝間田 弘(かつまた ひろし)英国、バーミンガム大学大学院、政治・国際学部博士課程在籍中。冷戦後のアジア太平洋地域における政治・安全保障協力への、社会学的理論によるアプローチを目指す博士論文を執筆中。アセアン諸国の役割を考察するために、今年8月からシンガポール国立大学大学院、政治学部にて研究中。メルマガ「教科書に書いていない国際政治学」(http://members.aol.com/hiro102570/magazine2.htm)著者。GEOグローバルメンバー。

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★エンロンのそこにある危機
   荒木 裕一(アリックス・プロジェクト・マネジメント 代表取締役)
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 エンロンというとMLBのヒュ−ストンだったか、フランチャイズ球場名として、にわかMLBファンの私にとってもよく知る企業名となりました。

 また、ADSL等の急拡大で日本にも根付き始めたブロードバンドサービスでつい半年ほど前に「エンロンが日本で何をするんだろ・・・」という憶測とともに、電力、通信の業界連中がワクワク、ハラハラしていた発電とブロードバンドサービスのあのエンロンです。

 エンロンは日本でブロードバンドのサービスを行おうとして、CTCが仲介をし、NTTが関連会社を使ってシステム構築とマーケティングを・・・というちょっとした図式ができあがりつつあります。

 それで、身近となったブロードバンドサービスに対する親近感から、同時多発テロ事件でその距離がさらに遠くなった米国の一企業に思いをはせてみようと考えました。

 ただし、わたしはエンロンについてニュースを見ながら初めて財務諸表等をみている程度で従来から深く知っているわけではなく、また、ここで書くことは、ニュースをプリントアウトして、得意でもない英語と格闘し、辞書を引き引き読みながら、考えたことなので、英語の解釈が間違っているかもしれず、また偏った解釈になっているかもしれませんのでご容赦ください。私の推測がある程度あたっていればですが難しい問題があるように思います。

小田さんの地域研究と言うことからする、このMLの趣旨とはずれますが...

▼今回の事態

 10月26日の報道で、エンロンはコマーシャルペーパー市場からシャットアウトされ、$3,000min のコマーシャルペーパーのクレジットラインの解消後、債券と株式の市場価格の急落したというものです。この2週間で株式の市場価格は54%下落し、10月26日の終値は$15.4となっています。昨年の株式市場価格の高値 $90.563 、昨年末の終値 $83.125 からすれば1/5以下の状況にあります。

 これは、最近までエンロンのCFOであったアンドリュー・ファストウ氏が実行した電力購入先であるパートナシップ企業 に対するエンロン所有でパートナーシップ各企業用の発電用施設・設備等のパートナーシップ各企業に対する売却による一連の保有資産のオフバランス化取引によるエンロンの財務状況の急速な悪化がその重要な点です。

▼今回の有価証券価格急落の原因となった取引の内容

 今回の件は、エンロンが購入する電力の供給元であるパートナーシップ企業向けの発電用施設・設備等をエンロン側のリスクで建設し、各パートナーシップ企業はその施設・設備を購入後も有利な資金提供者を見つけて売却し、それによりエンロンに対する債務を決済処理するという、一連の取引(ディール)により成立するものです。

 パートナーシップ企業各社はおそらく発電用資産売却後その資産を借りて発電事業を行うものと思われます。

 そうした点から、今回の件は、有利な再売却先が見付かるのであれば、

 1. すでにその時点事業施設が存在し、事業が成立していること
 2. 電力の購入業者(エンロン)が存在し、販売先に対する営業活動の必要がないこと
 3.エンロンによる他と比較して安い資金によって建設された発電施設であるために他に比較して価格面で施設売却の自由度が高いこと

 の3点から新たな資金提供者にはリスクの比較的少ない取引となり、有利に一連の取引を勧めると目論まれたものと思われます。

 なお、記事では当該パートナーシップ企業各社関連の債務は少なくとも33億ドル程度存在するとのことです。

 見方を変えれば、香港の海底トンネル建設、東南アジア各国での高速道路・LRT・発電所・港湾・空港等建設でよく見られる方法ともいえます。また、シスコシステムズ前決算でシスコの足を大きく引っ張った新興電話会社(CLECs)に対して行ったベンダーファイナンスと同種のものとも考えられます。

 ではどこが、例えばシスコと大きく異なったのか...

▼エンロンの財務的な特徴

 エンロンの決算は

FY1999 FY2000
Revenue (百万ドル) 40,112 100,789
operating_income 802 1,953
IBIT 1,995 2,746(対売上高比2.7%)
Net Income 893 979(対売上高比0.7%)
Assets 33,381 65,503
Short term/Long Term debts 8,152 10,229
Liabirities from price ris
management activities 1,836 10,495
Share holders' equity 9,570 11,470

 日本円ベースの年間売上高12兆円、総資産 8兆円 巨大企業ですが、電力事業・エネルギー関連事業という点から利益率が極めて低く、また、1999年度決算から2000年度決算にかけてWholesale_Service部門での取扱高が大幅に急増し、価格変動リスクの高い事業活動に基づく負債の大幅な増加に伴い、売上高の急増、総資産の急膨張に特徴があります。また、IBITのほとんど$2,252mlnがWholesale_Serviceによるという点に特徴を有する財務諸表となっています。

 ちなみに日本でその動向注目されているブロードバンドサービスは昨年初めて売上げに区分計記され、年間売上げは 408百万ドル でIBIT(60)ですから、全体から比べると1%にもみたず、赤字部門です。

 シスコのそれと比べた場合、利益率が脆弱な企業といえ、その点で昨年取扱高は一昨年に比べて急増しています。

▼一般的な解説

 コマーシャルペーパーというのは信用力のある会社が発行する割引債の形式で発行される短期(償還まで数日から数ヶ月)の有価証券で日本でいう手形みたいなもので、通常は無担保・無保証で、取引の決済等短期資金の確保のために発行されます。

 今回は10月26日直近で発行残高が22億ドル(約2,700億円)あったようです。

 コマーシャルペーパーは無制限に発行される訳ではなく、金融秩序維持の観点から、各会社の信用度合い(格付)に基づき、クレジットラインという発行上限額を決め、その範囲内で発行します。今回のケースでは30億ドル(約4,000億円)がクレジットラインです。

 ただし、優良な会社((場合によっては銀行よりも)信用度の高い会社)が発行することから、無担保・無保証であっても通常は銀行のローンの利率より低い利率での調達が可能です。

 なお、格付は短期のコマーシャルペーパーと長期債では、その資金的な性格、元本償還のリスク・利払いのリスクから格付のやり方、表示方法とも異なります。エンロンの中長期債の格付は現時点ではBBBからBBB+(S&P格付) コマーシャルペーパーでA-2(S&P格付)です。

(ちなみに日本の手形による決済制度を上記のような考えで定義すると、銀行(通常はメインバンク)保証の短期有価証券を事業会社が発行し、それにより買掛代金等買掛債務を決済することにより信用体制を維持する方法という風に定義できます)

▼現在の状況

 エンロンの発行する債券等が投資不適格(ジャンク債:機関投資家が購入できない、高リスクと認定された格付BB以下の債券)となった場合、期限の利益を失い(契約による償還までの期限が消滅し)、おそらく早期あるいは即時償還 または同額の担保提供を求められることになり、上記の仕組みが崩れ、当該パートナーシップ各企業が当該資産を有利な条件で売却先を探す時間がなくなり、発生する負債との差額を埋めなければならず、一方で負債による資金調達が難しくなったエンロンは、例えばパートナー企業が保有する優先・転換株式の転換により普通株式を発行するなどの方法しか残っておらず、その方法により、上記の取引を決済・解消するといったことが想定され、よって普通株式の希薄化が起こり、株価が下落するといったシナリオにとなるものです。

 上記の負のスパイラルに陥ったか、陥る可能性が極めて高くなったことから債券ばかりでなく株式の市場価格も下落したようです。

 コマーシャルペーパーのような短期債だけではなく、長期債についてもS&P、ムーディーズ等の格付機関は格落ちの検討に入っているようですから、想定される悪い方に確実に事態は動いています。

▼エンロン債の状況

 従来発行されている2009年償還のエンロン債の表面利率(クーポン)は6.3/4%、BBB+トリプルBプラス:S&P)格が、現在のイールド(実勢利率)からすると9.53%であると報道されています。

 同期間、格付、クーポンと比較してみると、2009年1月償還のノースキャロライナ州の公債、クーポン 6 1/8%、格付BBBが実勢利率 4.8%ですから、公債と事業債の違いはあるとはいえ、ボロボロの状況にあります。BB以下となれば投資不適格となり、ジャンク債の範疇に入ってしまい、通常の負債による資金調達活動は難しい状況となります。

 両債券を比較してみれば、すでに債券市場はエンロン債券を元本の償還・利払い可能性の低い、高い実勢利率(ハイイールド)債券とみなしています。

 公益的な会社だからいいのでしょうが、しかも子会社には親会社以上の格付の会社もあるようですが、この手の巨大企業が市場から資金調達できないとなると、存続さえ難しくなってしまいます。

▼結論

 株式の市場価格をよくするために、投資家が好むよう資産の圧縮を行い、総資本利益率等の改善から株価の上昇を狙った取引なのか、そうであれば今回の件でその意図ははっきりと失敗となります。

 一方で昨年来のカリフォルニアの電力危機にみられるように、電力設備の増強が絶対的な課題となり、電力購入元であるパートナーシップ各企業の信用力が低く、その財政状態から発電施設等の設備投資がむずかしい状況から、外部の資金供給者からの最終的資金導入を前提にした設備のファイナンスをエンロン自身が企画・実行したケースとも考えられます。それからすれば、米国のパブリックサプライ分野での緊迫感を垣間見せてくれるような出来事でもあります。

 確かにこれだけの規模の会社にしては資産規模が小さく、見事な財務諸表ですが、エンロンの日本法人のホームページ上での規制緩和の主張に反し民間レベルのみでのパブリックサプライ分野の充実は難しいことなのかもしれません。こういう事があると、1990年代に市場主義一辺倒できた米国の強さと脆さが浮かび上がっているようにも思える事態です。

▼日本の場合

 このような話は程度は低いですが、日本でもあり、たとえば日本航空 が自社保有の中古の航空機を償却を無視して、市場価格と称して高い価格で関係会社に売却して利益を捻出し、その航空機をリースバックして使用するという事が数年前の経済誌に掲載されていましたが、処理の動機は同じところにあるのかもしれません。欺瞞的処理と憤っても、民営化した日本航空にしてみれば、円滑な資金調達を維持するために窮余の一策だったのでしょう。

 エンロンのケースは日本であれば、エンロンの代わりを電源開発が行うのでしょうが、今後の民営化から同様の事態の出現も想定されます。公的な保証制度はやはり必要でしょう。といっても道路建設とは大きく異なりますが...

 少しばかり甘い評価になってしまいますが、今回のエンロンの処理は時間と事業環境の変化に負けたという感じがしますが、アメリカさんは大丈夫なのでしょうか。少しばかり心配です。

 エンロンの今回の会計処理の意図が悪意に基づく欺瞞的行為ではなく、またこの事態が円滑に処理されることを祈っています。

【筆者プロフィール】
1954年、長崎生まれ.1982年学習院大学文学部哲学科(アメリカ哲学)卒業、大和証券入社、1983年より同社引受部・公開引受部で主にIPO等株式引受業務、事業組織変更業務
(狭義のM&A)に従事.1998年7月同社退社、現在主に、株式公開サポート、事業創業サポート、事業組織変更サポートを個人でやってます。参加した/するプロジェクトに関してはミッションとして必ず結果(トラックレコード)を出す事を信条としてます。暇を見つけては香港を拠点にアジア地域を歩き、会社、工場、市場を巡り、美味しいものを食べています。株式公開等会社とのディープな関係を結んできたキャリアから、仕事の対象としてきた会社群の産業史的位置付け、取引方法等の文化的癖を常に考えてます。GEO-G代表の小田さんとは某マザーズ上場1号会社の公開サポート時以来の関係です。メールアドレス;araky@dd.iij4u.or.jp

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updated:2002.05.02