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メルマガ/vol.20
2002.07.11
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「植民地宗主国としてのフランス紀行(4)」
 笹川 秀夫(日本学術振興会特別研究員)

みなさん、こんにちは。サンフランシスコの小田です。

6月末に、当地サンフランシスコの連邦高裁が「忠誠の誓い」(the Pledge of Allegiance)に政教分離の見地から違憲判決を出し、全米が議論が巻き起こりました。

「忠誠の誓い」とは、小学校や中学校などで「私は神の下に一つになった自由と正義の国、アメリカ合衆国に忠誠を誓う」と毎朝、胸に手を当てながら国旗に向かって忠誠を誓うものです。この中の「神の下に」(under God)というのが憲法修正第一条の政教分離の原則に違反するというのが、リベラルで知られるサンフランシスコの連邦高裁が下した判決です。

この判決には、全米から非難の嵐が吹き荒れ、ブッシュ大統領も「ばかげている」と強い口調で早々に反対を表明しました。Newsweekの世論調査でも実に87%が「神の下に」という文言を支持する結果が出ています。

これには、私はずいぶんと違和感を感じましたね。なんせ私は八百万(やおよろず)の神の国で生まれ育った人間ですから。多元主義を標榜する合衆国の言い分は、「忠誠の誓い」の文言の「神」は、神様を特定するものではなく、キリストであってもアッラーであっても各人の信ずる神で良いのだとのこと。

しかし、これとても、一神教を前提にしていることは明らか。アメリカ合衆国が、いかにユダヤ=キリスト教の基盤に成り立っている国かを改めて感じさせるものです。

さてさて、本号の内容のご紹介。いよいよ今回が最終回となる、笹川秀夫さんのフランス紀行の連載第4回目です。ワールドカップ日本戦か、公文書館での文献渉猟か、究極の選択を迫られた笹川さん。さらにサッカーのナショナルチームから浮かび上がってくるものとは...

小田康之(oda@geo-g.com

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★「植民地宗主国としてのフランス紀行(4)」
笹川 秀夫(日本学術振興会特別研究員)
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 フランスにおけるコロニアルなもの探しに関する連載も、いよいよ最終回。6月に入ってから見たこと、感じたことが今回のテーマです。

▼6月1日、再度マルセイユへ

 前号にて予告した通り、土曜日に再度マルセイユへと出掛けました。目指すは海洋博物館と歴史博物館の2ヶ所で、1906年と1922年に同地で開催された植民地博覧会についての展示があるかどうかを確認するのが目的です。

 まずは、海洋博物館。ここマルセイユに、こうした名の博物館があるのは、この街が港町だからです。しかも、単なる港町ではありません。20世紀初頭までのマルセイユは、植民地へと向かう航路の起点となる港でした。そして、マルセイユの商工会議所は、フランスの植民地拡張政策に大きな影響を与えていたと聞きます。2度にわたって植民地博覧会がこの地で開催されたのも、この街と植民地との深い結びつきに由
来します。

 かつて植民地へと向かう出口だったマルセイユは、現在では北アフリカやブラック・アフリカの旧植民地から移民がフランスへとやってくる入口になっています。前回、フランス対セネガル戦でフランスが負け、セネガルからの移民が快哉を叫んだという話を書きました。その移民たちというのは、やはりマルセイユ在住者でしたよね。

 駅やバス・ターミナルから博物館のある旧港へと向かう道沿いには、そうした移民たちによる店が数多く並んでいます。イスラーム教徒しか着ないだろうとおぼしき服を並べた洋品店や、アラビア語の音楽のCDを扱う店が並ぶ路地は、「フランスすてき〜」という街並みとはずいぶん異なります。

 さて、路地を抜けて海洋博物館に入ると、そこでは西アフリカの旧植民地との関係を扱った特別展が開催されていました。特別展といってもたいした量の展示品はありませんが、お目当てにしていた植民地博覧会のポスターがありました。そして、常設展の部屋には、それらのポスターの原画も飾ってあります。1906年と1922年の植民地博覧会と、1916年に計画されたけど実施されなかった博覧会のポスターや原画を見ると、いずれもカンボジアの宮廷舞踊団が描かれていました。当時の博覧会で、カンボジアの宮廷舞踊がいかに注目を集めていたかを知ることができます。

 そのほかカンボジアと関係ある展示品として、船の模型がありました。19世紀以降、マルセイユを基点に運航していた船を飾ってあるんですが、そのなかに「カンボジア」という船があります。船名のほかに就航した年が書かれていて、くだんのカンボジア丸は1953年とありました。ということは、カンボジアが独立した年に、「カンボジア」という船を作ったことになります。第二次大戦後、植民地が独立していく喪失感を表わす船名かなあと感じました。

 つづいて、歴史博物館に参りましょう。ここの目玉は、地中から発掘された古代の船ということのようです。そして、歴史博物館の「歴史」というのは、古代から中世あたりまででおしまい。地中海の要衝、商業の港としてのマルセイユは古代に始まるということを主張する博物館と見え、近代や植民地に関する展示は、海洋博物館に任せたということらしい。

 ともかくも、海、船、港、海外雄飛、そんでもって商業発展というのが、マルセイユの博物館に共通して見られるコンセプトだと言えそうです。雄飛してきた人たちを受け入れる側は、植民地にされてしまうわけで、迷惑な話なんですが。

▼6月4日、エクス最終日

 2週間あまりの公文書館通いも、6月4日で最終日を迎えました。フランス時間で午前11時から、日本対ベルギー戦があったんですが、今回の滞在中に見ておきたい資料のファイルを開ける方が大事。高い滞在費を払っているわけだし、サッカーを見ている場合ではありません。

 やっていても敢えて見ないというほどには、ぼくも「非国民」ではありません。見る時間があれば見るという程度には、日本国民だといえます。でも、サッカーの試合にどれほど興奮させられたとしても、これまで誰も使っていない資料にめぐりあったときの興奮には勝てません。そして、しばしば公文書館通いの最終日に、その手の資料が出てきたりするもんです。

▼6月8日、コロニアルな写真を購入

 5日にパリに戻り、木曜と金曜に資料集めを続けた後、パリ滞在最終日の土曜は、本屋さんと古い写真や絵葉書を扱う店に行くことにしました。

 写真屋さんでは、19世紀後半から20世紀前半にかけての写真が地域別・テーマ別に分類されていました。植民地博覧会の際に建てられたアンコール・ワットの模型や、カンボジアの宮廷舞踊団に関する古い写真がお目当てだったので、仏領インドシナに関する箱をゴソゴソと覗いてみると、「ベトナム」ではなく「トンキン」「アンナン」「コーチシナ」と植民地時代の呼称で分類されています。客はコロニアルな写真が目的で来るんだから、分類もコロニアルな方が都合が良いということなんでしょう。

 「カンボジア」と分類された写真のなかに、1931年の植民地博覧会の際にパリを訪れた舞踊団の写真を発見。それから、「植民地博覧会」と分類された写真のなかに、夜間にライトアップされたアンコール・ワットの模型を見つけました。いずれも、100ユーロ也。古い写真の収集家ってのもいるわけで、なかなかのお値段です。でも、他所では手に入らないものだし、見つけたときに買っておかないと後悔するだろうか
ら、2点とも購入。

 お店のおばさん曰く、「アンコール遺跡の古い写真なら、ほかにも色々あるよ」とのこと。「いや、アンコール遺跡そのものより、植民地博覧会の写真が欲しいんですけど」と答えたら、ゴソゴソと箱を開けて探してくれましたが、結局ぼくが買おうときめた2点以外には見つかりませんでした。ほかにも出てきたら、きっとそれも買ってしまっただろうから、残念だったような、散財せずに済んで安心したような……。

 コロニアルなものには、今でもケッコウいい値段がつくみたいです。

▼6月9日、パリ、シャルル・ド・ゴール空港にて

 パリを発つのは夜の便でしたが、昼前に宿をチェック・アウトしてシャルル・ド・ゴール空港に赴きました。上記の通り、時間があればサッカーを見るという程度には日本国民なわけで、日本対ロシア戦を空港のテレビで観戦するのが早めに空港に行った理由です。

 空港内のレストランかカフェにテレビが置いてあるだろうと思っていたら、いずれも出発便の案内をするモニターしか設置してありませんでした。熱中した客が乗り過ごさないようにする配慮か、はたまた店の回転率をあげるため、喰ったらとっとと出て行けということか……多分後者の理由によります。ということで、サッカーを中継しているテレビは、出発案内の電光掲示板脇にあった小さな画面のみ。立って見るしかありません。

 すぐ後ろがアエロ・フロートのカウンターだったので、ときどきロシア人の職員さんが試合経過を確認しに来て、「まだ0対0」「いい試合だねえ」「うん」とかって会話をしていたんですが、後半には来なくなってしまいました。日本が点を入れたからではなく、モスクワ行きの便の出発が近づいて忙しくなったのが理由だと思いますが。

 その後にやってきたのは、ベトナム系か中国系のおじさん。かなりブロークンなフランス語で、日本の応援をしていました。フランス語に関しては、ぼくも他人のことをとやかくいえた義理ではないので、よしとしましょう。ともかくも、ことばから判断するに、そのおじさんは移民の一世じゃないかと思います。そういう人が、フランスではなくアジアのチームを応援したくなるような状況が今のフランスにあるというのは、フランスがセネガルに負けた際の現象と同じことだろうと思います。

 セネガルということでは、エクスからパリへ戻ろうと、マルセイユまで乗ったバスのなかで、セネガルのユニフォームを着た黒人男性を見かけました。それから、パリで食事をしていたら、客の黒人男性と店員の黒人男性がセネガルのナショナル・チームの試合結果をあれこれ話題にしているのも耳にしました。セネガルのナショナル・チームは、実際にセネガル出身の移民だけでなく、アフリカ出身者だれもが感情移入できる存在になっていたんじゃないかと思います。

 フランスのナショナル・チームは、ご存知だろうと思いますが移民が高い割合を占めています。だから、狭義の「フランス人」だけでなく、フランス国民なら移民も含めて誰でも「我々のチーム」として応援できる存在だったはずです。少なくとも、1998年のフランス大会と、2000年のヨーロッパ選手権でフランスが優勝した際には、そういう存在のチームでした。しかし、緒戦での敗退が、チームの存在意義を変えたといえます。帰国後の6月11日、一次リーグでのフランス敗退が決まったことを嘆くサポーターの映像を見て、やたらと肌の色が白いということからも、同様の感想を持ちました。

 移民排斥という動きは、確実に存在します。ぼく自身が排斥されそうになった話は、連載の最初に書きました。そして、移民を制限する法案がヨーロッパ各国で成立していることなどは、日本でも報道されている通りです。でも、それなら排斥される側は何をしているんだろうという問題は、日本では見えてきませんよね。今回のフランス敗退は、ぼくのような短期滞在者にも排斥される側の動きが観察できるような、大きな出来事だったと言えるでしょう。

 「われらフランス人」という国民統合をめぐる幻想は、さまざまな点でほころびを見せはじめていると思います。移民の増加こそが、ほころびの一つといえます。それでも幻想にしがみつきたい人が多数いるからこそ、移民排斥という動きが出てくるわけですよね。今回のフランス敗戦を契機として、ほころびは大きな裂け目になり、その裂け目からフランス社会が抱える矛盾が表に噴出したということなんでしょう。短期間の断片的な観察ですが、なかなか凄いものを見せてもらったという感想です。

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updated:2002.07.11