ジオ・グローバル    
 HOME
小池利幸のモロッコ便り
第1信:1999年3月20日 小池利幸
 モロッコ。アフリカ大陸、地中海世界、そしてアラブ・イスラーム世界の西のはて。そしてフェズ。世界遺産に登録されるほど入り組んだ、1000年以上の歴史を持つ世界一の迷宮都市。周囲15`の城壁に囲まれた旧市街の中は、メインストリートでさえ幅3〜4メートルの世界。もちろん車はその中には入れない。代わりにロバ,馬、そして人間が所狭しとうごめいている。

 旧市街(メディナ)の裏手の丘の上にあるイスラーム墓地からメディナを眺めてみても、すべての道は建物の裏に隠れてしまい,人っ子ひとりメディナの中にはいないような気がしてくる。視界に入るのはメディナの中にある380のモスクのミナレット(塔)だけ。この町は歴史の中にしか存在しないものなのか、死んでしまったのかとも感じられる。

 しかしいったんその中に入り込めば、この町がいまなお生き続け、さらには色あせるどころかその色が濃くなっているということを実感する。言うなれば、この町の中に住むロバ、馬、そして人間達がこの町の血液のようなものだといえよう。外からは見えない。しかし、この町は生きている。

 その町の一角に住み始めて、はや1ヶ月。ようやく自分も血液の一部に溶け込んでいったのだろうか。観光客が集まりそうな名所の近くにたむろしている自称ガイド達や土産物屋も、昔からの友人のように挨拶をしてくる。ときにはモロッコ名物のミントティーをご馳走してくれる。なにかが変わり始めたようだ。6度目のモロッコで見えてくるもの。この脈々と生き続ける生のメディナ世界を伝えていきたい。

PreviousNext  
[目次へ]
小池利幸のモロッコ便り
第6信:1999年10月20日 小池利幸
 今回はモロッコの国王の死について書こうと思ってましたが,もっとエキサイティングなことがありましたので,そっちを書きます.まず,『イスラームに何がおきているか』(小杉泰編,平凡社,1996年)の巻末に載っている,「現代イスラーム復興の諸組織一覧」のモロッコのページ(P310)から一部分を引用します.

◎ 公正と慈善の団体運動 アブドゥッ・サラーム・ヤーシーンが1970年代半ばに設立.王制をイスラーム的に改革することをめざす.ヤーシーンは自らシャリーフ(ムハンマドの子孫)と名乗り,シャリーフである国王の存在を認めている.イスラーム復興組織として国内最大.

 この非合法イスラミスト組織の夏キャンプに潜入してきました.事の起こりは,この夏3ヶ月間ほどモロッコに来ていたJ大学のK教授が,新聞に「イスラミスト,海岸に4万人集結!!」という記事が載っていたの見て,「小池君,調査に行こう!!」と誘ってきたことから.

 イスラミスト,一般的にはイスラーム原理主義者と呼ばれる人々の集団.欧米や,その欧米経由のニュースを鵜呑みにする日本においては,「イスラーム原理主義」といえば紛争や暴力,さらには遅れた世界といったイメージがつきまといます.ですが,実際にはそんな極端な行動に走るイスラミストなんて,ほとんどいません.逆に,例えば「公正と慈善の団体運動」という名が示すように,慈善活動や社会奉仕活動をやっているようなところもあります.

 といっても,やはり少しどきどき緊張しながら,K教授と僕は僕の愛車オペル・カデット(今年18歳)に乗って,僕達が住む首都ラバトから150キロぐらい離れた海岸にある,彼らの集団キャンプ場に向かいました.車の中では「彼らを刺激しないようにしよう.」などと話し合い,せっかく持ってきたビデオムービーも使わないようにしようと決定. で,幹線道路から細い砂利道に入り,海辺特有の松林の中に車を止め,いざ彼らのキャンプ場に潜入!!

 「これ,ひとつの町だ…」,これが第一印象.どこまでも続く砂浜に,見渡す限りのテント,テント.実に壮観.実際に4万人が二ヶ月弱生活する場だとすると,一家族8人ぐらいだとして,最低5000張以上のテントがあることに.(ちなみに新聞によれば,これと同じ規模の集団キャンプ場が,モロッコ全土で6ヶ所もあるらしい.)でも,これだけの人がいても,外国人,ましてや遠い東の果ての国からの日本人なんて,我々以外いるわけがありません.目立つ,目立つ.いつの間にやら僕らの周りには人だかりが.で,その中にはこの組織の幹部らしい人達の姿も.

 そうこうするうちに,僕達は本部に連れていかれ,なぜか歓迎ムード.特にK教授はアラビア語が上手に話せる上にイスラームに関する知識があるので,来賓扱いで説明を受け,僕は僕でアラビア語とイスラームを学ぶ学生としてそれなりの興味を持たれ,サンドイッチやらポテトフライやらをごちそうに.さらには来客用のノートに「一言メッセージを書いてくれ.」と頼まれ,K教授はもちろんアラビア語で,僕は日本語とアラビア語で数行ずつメッセージを書いたところ,「おお,日本語だ!」という感じのどよめきがたってました.

 その後,まずは彼らによるこのキャンプ場の説明.前述したように本当の意味で「町」が出来てました.モスク,トイレ,病院,街灯,ステージ,食堂,八百屋,何でも屋,はては本屋まで.特にこの本屋には,王制批判をしたとして,現在ラバト近郊に軟禁されているこの組織の指導者ヤーシーンの著作が全て勢揃い.ちなみにこれらの本は全て普通の本屋では販売自粛となっているため,K教授は持ってきたお金を全てはたいて,それらを全種類購入してました.

 また病院もすごい.というのも,二ヶ月近くもこのようなキャンプ生活を送っていると,必然的に病人も増えてきます.(彼らの話では遠くから運んでくるしかない水にあたるなどして,毎日平均100人以上がこの病院に運びこまれるらしい.)そのような状況に対応するため,30人前後の医者が交代でその病院に待機しており,かつそこにおいてある薬も,町の薬局より種類が多いのではないか,という感じの態勢ができあがってました.

 ひととおりキャンプ場の見学が終わると,次は昼食のために来賓用キャンプに招かれました.で,タジン(モロッコの代表的煮こみ料理)をつつきながら,食後はミントティーを飲みながらいろいろと彼らと話を.(と言っても,実際に話してたのはほとんどK教授ですけど.)そしてお腹いっぱいになったところでテント移動.そこでもなんとまたしても昼食として,これまたモロッコの代表的な料理であるクスクス,それも馬鹿でかいのが給され,「もう食べれない,もう食べれない.」といっても無駄でした.

 異様に膨れ上がったお腹をさすりながら,K教授とイスラミストの会話を聞いていると,いろいろと興味深い話が耳に入ってきます.例えば,やはり幹部には理工系の技術者なども多く,基本的に高学歴.(そのせいもあってか,この組織はホームページを持っています.)そして彼らの話は理論的で,決して感情的な議論は持ち出しませんでした.それに対して,下層の構成員は僕達に「イスラームとはなんぞや?」といった感じの問いを投げかけ,その答えとして「イスラームは最良,最高,そして唯一の宗教.」と言わせたがってました.

 K教授とイスラミスト,そしてほんのちょっと僕も参加した議論も終わりに近づいきたとき,なんと彼らの口から「今の王制は間違っている!!」などという,モロッコの街中では決して口にする事の出来ない危険な言葉が飛び出すようになってきました.僕は「うわっ!こりゃやばい展開だ.」と思い,K教授に「ここ,体制側のスパイいませんかね?」と聞いたところ,笑いながらもすぐに通訳して彼らに伝え,「いる訳ないだろ!!」という返事をかなりまじめな顔で返されました.(「でも,実際にこの組織は以前に二度ぐらい弾圧を受けてるしなー.」,とは口には出せませんでしたが.)

 「さて,そろそろ帰ろうか.」というときに,彼らは大掛かりなビデオ・ムービーを持ってきて,「ここの感想とかを述べてください.」とのこと.K教授はマイクを持ち,かなり長時間アラビア語で話をしてましたが,なぜかその後僕にもマイクがまわってきて,しどろもどろになりながらもアラビア語を感想を述べさせられるはめに.

そして帰りの車の中での会話.

K教授「いやー,有意義な1日だったねー.」
僕  「ええ,ビデオまででてきてびっくりでしたね.」
K教授「うん,おそらく広報用にでもつかうんじゃないかなー.」
僕  「じゃ,もしあの非合法組織が警察の手入れを受けて,あのビデオテープが体制
    側の手に渡ったら…もしかして僕達,国外追放ですか.」
K教授「…」
僕  「たしか僕と先生,職業も名前もマイクに向かって堂々と語ってましたよね?」
K教授「…,さっ,ラバト帰ったらご飯でも食べにいって,ワインでも飲もっか?」
僕  「えっ,ええ,そうしましょう!!」

 まあ,こうしてあのキャンプ潜入から二ヶ月経ったいま,なんとかモロッコにすむ事が出来ている以上,あの組織もまだ健在なんだろうな,と思う今日この頃です..

PreviousNext  
[目次へ]
[top page][about GEO Global][events][essay][records][mail magazine][links][archives]
updated:2002.07.21