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植民地宗主国としてのフランス紀行(2)
笹川 秀夫(日本学術振興会特別研究員)
 南仏エクサン・プロヴァンスでの資料集めもまもなく終わりですが、3日分の話を書いたところで前回は終わってしまったので、パリでの話を続けます。まずは、フランス極東学院に行った翌日の話から。

▼5月17日、パンテオンにて

 セーヌ川の南岸、カルティエ・ラタンというのは、ご存知の通り大学などがある学生街です。アジア関係の本を扱う書店もこの界隈にあるので、5月17日に出掛けてきました。

 本屋に行くついでに寄ったのが、パンテオンという廟です。ここには、「フランスのために尽くした」と認められた人がまつられています。でも、植民地出身者も実は何人かまつられていると日本を発つ前に本で読んだので、「よし、行ってみよう」と思いたった次第。

 地下に棺を納めるようになっていて、著名な人の場合は顔写真(もしくは肖像画)付きのパネルで生前の業績を説明してあります(フランス語による説明しかありませんが)。そうしたパネルのなかに、明らかにいわゆる「フランス人」ではない人物を一名見つけました。アフリカはカメルーンの知事だったエブエ(1884−1944年)という人物がその人で、説明文には「海外のフランスにおける最初のレジスタンス参加者」とあります。

 1940年、ナチス・ドイツの侵攻によりパリが陥落し、ヴィシー政府が成立、そのヴィシー政府に対抗してド・ゴールを中心とする「自由フランス」がロンドンで結成されたことや、フランス国内でナチとヴィシー政府に対するレジスタンス活動が行われたことは、フランス史に関する知識がある方ならみなさんご存知でしょう。しかし、当時の植民地がどのような状況にあったかに関する情報は、フランス国内やヨーロッパと比べて極端に少ないだろうと思います。

 ヴィシー政府と自由フランスの両者にとって、どちらが植民地を掌中に収めるかは支配の正当性を確立する上で重要な問題でした。当時のフランスというのは、本国だけでなく植民地をも含めてフランス全体があると認識されていたことの結果だといえます。だからこそ、第二次大戦中にド・ゴール側についたアフリカの政治家が、「フランスのために尽くした」と見なされて死後パンテオンにまつられたのでしょう。

 20世紀前半まで、フランス語による近代教育を受けたアフリカの知識人は、植民地支配と武力で対決するよりも、植民地のなかで現地出身者の権利をどれだけ拡大できるかという方向で努力したと聞きます。だとすれば、「フランスのために尽くした」と認められ、死後は「フランス人」とともにパンテオンにまつられるという結果は、本人にとってはそれなりに満足のいくものだったのかもしれません。

 ベトナムやアルジェリアで、フランスの植民地支配から独立するために凄惨な戦争が行なわれたり、カリブ海にある仏領の島マルティニーク出身のフランツ・ファノンやエメ・セゼールといった人々が、フランス語による著作でフランスの植民地主義を批判するのは、もう少し後の時代のことになります。

▼5月18日、ヴァンセンヌの森にて

 パリ市内の南東に、ヴァンセンヌという城があり、その城に隣接する大きな森が公園になっています。1931年、この公園を会場に、「国際植民地博覧会」という大きな催しが開かれました。

 19世紀半ばから、パリはロンドンと競い合いながら、ほぼ10年に1度ずつ万国博覧会を開いています。そして、今日のパリで多くの観光客を集める建物は、いずれもこうした博覧会の際に建てられたこと、ご存知の方もおられるでしょう。エッフェル搭しかり、その対岸のシャイヨー宮しかり。グラン・パレやプティ・パレも、やはり博覧会に由来します。

 19世紀の博覧会は、本国の産業、なかでも近代化された工業を宣伝するのが主な目的でしたが、植民地の物産や文化もまた、そうした博覧会の場で展示されています。20世紀に入ると、そのものずばり「植民地博覧会」へと名を変え、ヨーロッパ列強が自らの植民地における富や「善政」を宣伝する場になっていきました。

 カンボジアのアンコール遺跡は、こうした博覧会を通じてフランス人による「発見」として喧伝されました。さらに1922年にマルセイユ、1931年にはこのヴァンセンヌの森で開かれた植民地博覧会では、アンコール・ワットを模した巨大な建物が「インドシナ館」として建てられ、内部で仏領インドシナの物産や美術品が展示されています。このインドシナ館建設のため、アンコール・ワットに関する情報を提供したのが、前号で言及したフランス極東学院だったことも言い添えておきましょう。

 これらの複製されたアンコール・ワットに先立つ1906年、やはりマルセイユで開催された植民地博覧会には、カンボジアの王宮から宮廷舞踊団が派遣され、その踊りは大好評を博しました。この1906年の段階では、カンボジアの踊りそのものが注目を集めていたといえます。しかし、1922年と1931年にも派遣された舞踊団は、インドシナ館として建てられたアンコール・ワットを舞台に公演し、その踊りはアンコール時代から連綿と続く「伝統」として宣伝されるようになります。

 実際には、カンボジアの宮廷舞踊は、19世紀半ば以降にタイの宮廷文化から強い影響を受けて成立しています。けれども、アンコールが中心に据えられるようになった植民地博覧会の場では、そうした歴史は捨象され、カンボジアの文化はすべてアンコールと関連付けて理解されるようになりました。アンコール遺跡の「発見」や、新たな「伝統」の創造など、植民地の語りかたを確立する上で博覧会が果たしてきた役割は看過できません。

 では、今日のヴァンセンヌの森に何か当時のものが残っているかを見つけるとなると、なかなか難しいだろうと思います。インドシナ館はもちろん残っていませんし、森は公園として市民がジョギングやサイクリングをする憩いの場として機能しています。

 でも、ちょっと調べれば、コロニアルなものの痕跡は見つかるもんです。現在、「アフリカ・オセアニア美術館」と呼ばれているのがそれで、1931年の植民地博覧会の際に建てられて以降は「植民地博物館」というスゴイ名称で、フランスが植民地から持ってきちゃった美術品や工芸品を展示する場でした。

 現在の展示品は植民地期当時のものに限定されるわけではなく、1990年代に集められたものなんかがかなりの割合を占めていました。だから、植民地との関連を直ちに看破するのは難しいでしょう。

 しかし、博物館の外壁は建設当時のままで、中央にフランス本国、左手にアフリカの植民地、右手にアジアの植民地を描いた彫刻が彫られています。さらに、正面入り口を入って上を見上げると、この建物が1931年の植民地博覧会のために建てられたことを示す大きなプレートが掲げられていました。

 一階右手に進むと、「リヨテイのサロン」という部屋もありました。このリヨテイという人物はインドシナにも赴任していますが、仏領だったモロッコ総督として有名な人で、1931年の植民地博覧会の総責任者も勤めています。この「リヨテイのサロン」は、調度品から判断するに博覧会当時の執務室と応接室だったと見えます。そして、この部屋の内壁にも、今度は絵画でアフリカやアジアの植民地が描かれていました。

 このヴァンセンヌの森の例にも見られるとおり、今日のフランスにおいてコロニアルなものはしばしば巧妙に隠されています。でも、よく目を凝らせばその断片がけっこう見えてくるもので、フランスによって植民地にされた側を専門にする身としては、そうした作業も無駄ではなかろうと考えています。

 さた、ここまで2日分を書いたところで、今日の原稿が尽きてしまいました。なかなか南仏に話がたどり着きませんが、また近々続きを書く予定でおります。では。

【筆者プロフィール】
日本学術振興会特別研究員。GEOでは、次のコロキウムのゲストスピーカーを務める。
第19回コロキウム「カンボジア文化」
<http://geo.jpweb.net/Archive/records/1997/1018/index.htm>

GEO Global ウェブサイトで公開しているエッセー
アンコール遺跡は「発見」されたか?
連載(1)南タイのムスリム

連載(2)カンボジアのムスリム チャム人とは

連載(3) 別荘の遺跡とホテルの遺跡と
連載(4) タイの演劇,政治,料理(?)をめぐる雑感
連載(5)商品化される中国らしさ(1)タイの場合
連載(6)商品化される中国らしさ(2)カンボジアの場合…

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updated:2002.06.06